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池田清彦 『構造主義科学論の冒険』(講談社学術文庫)1/2

 ここ3、4年、いわゆる「科学者」ほど疑いの目で見られる人びとはいない。
 この本は科学というもののどれだけの部分が論理的に精密に出来あがっているのか、逆に言えばどれだけの部分が論理的な破綻を内部に持っているかを書いたもの。あるいは、科学のかなりの部分が極論すれば政治的・社会趨勢的なご都合主義に陥っているものかを書いたものである。少し変人の池田清彦らしい、体制志向学者への罵声も所々に見られるが、とてもまっとうな書物である。
 ただしこの本はあまり売れなかっただろう。目の前の仕事にいっぱいいっぱいの大多数の個別科学者には、自分の理論が形式的に、つまり構造的に客観性を持つかどうかなどについてほとんど興味がないだろうから。だから「科学者」に向けられる疑いの目にどれほど反発しようとそれは自分たちのせいなのだが、多くの個別科学者にとってみればそんなことは(池田清彦みたいな)うるさ型のたわごとなのに違いない。個別科学者とは単純にいえば、原子力安全委員会の人たち、二酸化炭素地球温暖化の真犯人とする人たち、地震予知を可能とする人たち・・・・のことである。
 まえがきにいかにも池田清彦らしい宣言がある。いわく、「本書を貫く思想は、科学は何らかの同一性(構造の完結性)の追求であり、しかもその同一性(構造の完結性)には頼るべき根拠がない、という今ではごく当たり前のテーゼである。私の外部に私とは無関係に何らかの現象が存在することを否定する根拠はない、しかしそのことは、外部世界に(昔の神が定めたもうた)不変の実体や普遍の法則が存在することを意味しない。それらは自然の中に実在するのではなく、人間が発明したものなのだ。」

 ダーウィニズムは「科学であること」に不可欠な未来予測が、原理的にできない
 p214−220
 ダーウィンが考えたすべての生物に共通の現象とは何か。それは繁殖と変異と遺伝です。生物は生き残るよりずっと多くの子を産みます。それらの子は親に似ていますが、まったく同じではなく多少とも変異します。さらにこの変異の少なくとも一部は遺伝します。
 ダーウィンは以上のことから次のような話を導きました。「ある変異を有した個体が他の個体に比べて、ほんのわずかでも次世代の親(成体)を余計に残すことができるならば、世代を重ねるごとにこのプロセスは加速されて、この変異を持つ個体の割合は増加していく(つまり自然選択されていく)だろう。そのようにして生物は徐々に環境に適した変異を持つものに変化し行くだろう」という話です。
 すべての生物は多少とも変異を持ちます。また一つの世代の中ですべての子供が成体になれないうちに死んでしまう不幸な生物というのもいません。ということは、すべての生物は、繁殖と変異と遺伝によって進化し、かつ多様化することが可能なわけです。ダーウィンの功績は、生物はただ生きているだけですべて進化しうる構造(形式)を持っていることを明らかにしたことにあります。生物であることと進化することはじつは同じことだといったわけです。

(ネオ)ダーウィニズムは自然選択によって進化を説明しようとする理論です。進化に関して自然が選択するのは遺伝子の変異とその変異の集団内での増減であるとされます。さしあたってこの理論では、生物が進化することと多様化することは説明できます。しかし(ネオ)ダーウィニズムは、進化ということの形式(構造)そのものについては興味を持っていません。ある生物種がどのようなパターンで進化するかとか、どのようなパターンで多様化するかとかいった、科学にとって欠かせない将来予測に関することはほとんどできません。
 これはたとえて言えば、原子核の内部形式を問わないでも成立する化学と、素粒子論の違いみたいなものです。原子核の内部形式を問わなくても、物質の変化は化学反応として説明できます。しかし原子核の内部構造(形式)を問わなければ、ビッグバンから始まる宇宙の進化は説明のしようもありません。
 世界中でショウジョウバエのDNAを切ったり張ったりして遺伝子の組み替えが行われています。しかし出現するのは奇形のショウジョウバエばかりで、新種はまったく出てきません。ある意味この作業は、通常エネルギー状態で核融合を実現させようとしたふた昔ほど前の狂騒を思い出させます。核融合とは原子核の内部構造そのものを問い、その構造を変えようとする試みです。これに対して(教科書に記載された)DNAを切ったり張ったりするだけの「科学者」の仕事は、まだわかっていない「量子力学をふまえた)ある形質の発現原因の総体」を探求しないまま目前の化学反応だけを待つことに過ぎないのではないでしょうか。