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池田清彦 『構造主義科学論の冒険』(講談社学術文庫)2/2

 普通の人にとって、宗教は馬鹿げていても、科学は真理なのですね
 p236−7
 私たちはだれでも、個別科学のすべての理論に精通することはできません。したがってそれらの理論の当否を自分で判定することはできません。ほとんどの人が自分で当否を判定できない理論が、正しいものとして社会的に(NHKでも朝日新聞でも)流通してしまう事情というのはなかなか興味深い現象です。
 結論から先に行ってしまえば、現代の人々が科学理論を正しいものとして信じるようになる心的機構は、昔の人々が宗教を信じた心的機構と同じです。・・・・・大方の人々は科学の理論家でもなければ、宗教の教義にくわしい理論家でもありません。これらの人々にとっては、特定の宗教の教義も、特定の科学の理論も、その当否は自分で確かめることができません。ただ信じるだけのものです。その意味で普通の人々にとっては、宗教も科学もおなじです。
 三日後の晴雨予報、半年後の梅雨や降雪量の予報はまるで当たらないことがよくあります。世界有数のスーパーコンピュータで予測しても当たりません。そんなとき、30年以内には日本を数十キロの地下深くから襲うとされている東京直下型地震東南海地震の確率予測は、はたして科学なのでしょうか、宗教なのでしょうか。
 宗教の教義の正しさは万人にとっての真理ではないことを、現代の大多数の人々は知っています。しかし科学理論については、その理論の基礎にある論理構造に無理があることが多いことについて、大多数の人々は不思議なことに目を向けようとしません。少し乱暴に言えば、中世ヨーロッパ人がキリスト教を丸呑みした盲信機構も、現代人が科学理論を丸呑みしている盲信機構も、古来からの人間の脳機能の同じあらわれであると私は思っています。
 この盲信機構について養老孟司さんは、主著ともいえる『唯脳論』のなかで次のように言っています。「われわれの脳は、それがつねに浸っている対象に対して、強い現実感を付与する性質がある。<現実>ではなく<現実感>を感じることがそこでは重要だ。その端的な事例として数学者がある。数学者とは<数の世界に現実感を覚える人>のことだ。普通の人なら食べることも触ることもできない<数>は抽象の世界にしかない。なぜそんなものに現実感を覚えるかというと、脳にはそういう癖があるというしかない。その神経生理学的な面は解明されていない。」