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ミシェル・ウェルベック 『素粒子』(ちくま文庫)2/2

 素粒子』の二人の主人公ブリュノとミシェルは男たらしの母親から生まれた異父兄弟だが、自分たちの子供はおよそつくりそうにない人間である。ブリュノなどは後半で昔の女が子供を産みたいと言い出すが、その彼女は妊娠してすぐに子宮がんが発見されあっけなく死んでしまう。ミシェルにいたっては「正常な」男女関係さえ持つことができない大人に育ってしまった。
 「あとがき」に訳者が言っていることだが、この「双曲線」のような人生を歩むインテリ兄弟は決して自分の子供をつくる気のない世代という意味では同じ人種なのであり、西欧白人社会の人口減少とその先の滅亡を先触れしている世代なのだ。ベネルクスや北欧での白人精液中の精子数の減少がこの二十年来言われていることを思い出した読者も多いだろう。
 このことを考えながら読むと、弟ミシェルの量子論を取り入れた遺伝子工学の可能性が現実味を帯びてくる。彼の遺伝子工学は西欧白人社会の人口減少とその先の滅亡に対処しようとしたものだからだ。その滅亡を自分のこととして予感するミシェルは、生物学だけでなく物理学から哲学、歴史から芸術、宗教まで俯瞰できる天才として、「世界とは苦しみが押し広げられたものである」ことを魂の奥底から知っている。「これまで西欧は<合理的確実性>を拠りどころにしてあらゆる文明を牽引してきたが、世界の苦痛はまったく縮小しなかった。だとすれば、現在の遺伝子コード複製方式を変えられない人類に未来はないのではないか。植物から人類まで共通の二重螺旋構造という遺伝子コード複製のトポロジーを変えることができれば、すばらしいクローン人間が(オルダス・ハクスリーほどばかばかしい形ではなく)創造できるのではないか」と考えるのだ。

 p368
 2000年たって私たちはユダヤキリスト教の牢乎たる教義をやっと破壊することができた。それは、「<合理的確実性>という世界を説明するための原則」を決して手放さなかったからだ。数学的証明や実験にもとづく証明は、人間の意識にとってはもはや譲り渡すことができないものなんだ。なぜなら世界は我々が持つ知識の総量に等しいからだ。
 いま細胞分裂に関して確実に言えることは、複製を可能にするため、DNA分子を構成する二本の小枝は分離し、それぞれが補完的ヌクレオチドを引き寄せるが、これが「非常に困難な瞬間」だということだ。この瞬間は統御不可能で、ほとんどの場合そこで有害な突然変異が容易に生じうる。それはDNA分子が螺旋状の形態をしているからだ。この螺旋状という複雑なトポロジーを持っているかぎり、完璧な複製は不可能だろう。無限の細胞世代にわたり悪化することのない複製を得るには、遺伝情報を担う構造がコンピュータで管理できるコンパクトなトポロジーを持つことが必要なのだ――たとえばメビウスの輪のような単純なトポロジーだ・・・・・・・・・。

 この本の中には、テーマが近いので、オルダス・ハクスリーが何カ所かで登場する。文章がヘタクソだとさかんにけなされている。ウェルベックにとって、イギリスの名家出身にしてヒッピーのセックス文化を裏であおるようなことをしていたオルダス・ハクスリーほど胡散臭い人種はいなかったに違いない。一見してデキの悪いジョークだとわかるハクスリーの『すばらしい新世界』と違って、ミシェルのペシミズムには論理的な飛躍が少ない。そのぶん話の恐ろしさは格段のものがある。
 デカルトパスカルからオーギュスト・コントヴァレリーサルトルなどに何気なく言及するところも何カ所かあって、日本人読者としてはこの「知」の地下水脈の豊かさがうらやましかった。『素粒子』の出現はフランス小説界にとって事件だったらしい。発行後すぐに30か国語に翻訳されたという。ウェルベックの、「論理的飛躍のないペシミズム」がその異例の騒ぎのもとだったのだと思う。