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ディケンズ 『大いなる遺産』上下(新潮文庫)

 知らぬ人ないイギリスの文豪ディケンズの代表作だということと、養老孟司さんのおススメ本リストにもあったということで読んでみた。
 『大いなる遺産』の大きなプロットはいたってシンプルなものである。貧しい村の鍛冶屋の少年ピップがひょんなことから莫大な遺産を相続する(見込みがある)ことになる。その話はウソではないのだが、少年は遺産の贈与人が近くのお城のような邸宅に住む老婦人だと思い込む。読者もそう思ってしまう話の流れになっている。で、ピップ少年は巨万の富を持つ人間になるべく、ロンドンに行って「紳士」修行はじめようとする。 (ディケンズがこのように「大金持ち」と「紳士」をなんの皮肉もなく結びつけているところに、絶頂期大英帝国の面目がある。ロンドン時代の漱石が、自分は小猿のように扱われたと被害者意識を持ったのもこの空気である。)
 ところがそこに、遺産贈与を仲介するロンドンきっての弁護士や、その弁護士の(何を考えているのかわからない)金庫番や、この金庫番の完全に呆けた父親や、大金持ち老婦人に育てられたこの世のものとも思えない美少女や、飛ぶ鳥落とす勢いの損害保険業界に乗り出そうとしていっしょに紳士修行をする少年や、数年前ピップが助けた囚人や・・・・・・などが出たり入ったりして、話が突飛もない方向に揺れながら、だいぶ複雑に入り組んでいく。大して重要でもない人物の挿話がわざわざ一章をさいて描写されることも多いのだが、このあたりはネットのレビューでは、「彼らのおかしな行動をもってディケンズがなにを言いたいのかがよく分からない」と酷評されている。
・・・・・・・結局、「大いなる遺産」はまったく別の人間から、まったく別の形で贈られるのだが、その遺産は金銀財宝ではなく、キリスト教的「愛」という退屈なものである。ユダヤ人のスクルー爺さんが最後に平安を得た『クリスマス・キャロル』となんら変わるところはない。

 ディケンズドストエフスキーマルクスダーウィンフローベールバルザックの同時代人である。ツヴァイクが『昨日の世界』と呼んだ悩ましくも輝かしい時代、ヨーロッパ、アメリカの産業資本主義が暴力的なカネの力を発揮しはじめた時代に生きた人である。当時ロンドンは世界の先端都市であり、出版文化も含めてさまざまな意味で、主人公たちロンドン市民は世界の変化の流れの最も速いところにいたはずである。しかしその雰囲気がこの小説にはほとんどまったく出てこない。
 バルザックが『絶対の探求』を出したのは25年も前だし、15年前の1946年にはドストエフスキーの『貧しき人々』が出ている。フローベールが『ボヴァリー夫人』を書いてからでも5年たっている。ディケンズはこれらの記念碑的作品を読んでいなかったのだろうか。さらに、1948年のマルクス共産党宣言』、1959年のダーウィン種の起源』にいたっては、ディケンズの地元ロンドンで刊行されている。
 浪費家の両親のせいで学校教育を4年間しか受けられなかったディケンズにとって、社会の変化とは自分に見える範囲の変化のことだったに違いない。『共産党宣言』や『種の起源』は、たとえ読んでいたとしても、ディケンズを揺さぶる本ではなかった。
 そんなあたり、ディケンズはまさしく大いなる通俗作家だったのだ。だからこそ、変わらないことに安心感を見出したいロンドン庶民の大半が、近代人の葛藤劇からは程遠いこの教訓話喝采したのである。『大いなる遺産』はディケンズみずからが編集する週刊誌に1860‐61年にかけて連載され、毎回次号が待ち望まれたらしい。敬虔な中世の農民信徒のような脇役たちの描写を何十ページも続けたり、聖書のような厚さの貴族家系集を一日中めくっている下級貴族夫人のことを書き続けても、読者はそこに「変わらないことの安心感」を見出して安らいだに違いない。

 それにしても、養老孟司さんのおススメ本リストにあった「さすが名作」というコメントだけは許せない