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内田 樹 『おじさん的思考』(角川文庫)

 「内面」と近代文学
 p201-3
 文学史の教えるところでは、「内面」というのは明治文学の輸入品であり、それ以前の日本人の手持ちの概念に「内面」などというものは存在しなかった。
 高橋源一郎(や柄谷行人も)が言っていることだが、たとえば次の芭蕉の紀行文は、「風景」のことを書いているのに、よく読むとその「風景をめぐる芭蕉以前の古典文学の引用」しか、じつは書かれていない。
・・・・・明石夜泊。「蛸壺やはかなき夢を夏の月」「かかる所の秋なりけり」とかや。この浦まことは秋をむねとするなるべし。・・・・・淡路島手に取るやうに見えて、須磨、明石の海左右にわかる。呉、楚東南のながめもかかるところにや。・・・・・また、うしろのかたに山を隔てて、田井の畑と言ふところ、松風、村雨の古里といへり。・・・・・鉢伏のぞき、逆落としなど、恐ろしき名のみ残りて、鐘掛松より見下ろすに、一ノ谷裏屋敷、目の下に見ゆ。その代のみだれ、その時のさわぎ、さながら心に浮かび・・・・・
 高橋の指摘するとおり、芭蕉が明石の秋景色に触れたときの「心」の内容物は、まるごと「出来合いの詩文」のコラージュである。ここで芭蕉は「自分だけのオリジナルであること」をほとんど顧慮していない。まさに明治以前の「心」とはかかる「引用の織物」にほかならず、心が感じる「悲しさ寂しさ」は定型的であればあるほど、手垢がつくほどに熟知されたものであればあるほど、読者にとっては文学的にめでたいものであったのである。

 護憲派とはちがう憲法九条擁護論
 p26-8
 憲法九条改定論者は九条を空論だという。「もしどこかの国が侵略してきたらどうするのだ」と脅かす。しかし現に日本は自衛隊という武装を有して、備えをすでになしている。そして、その武装はどういう条件下で行使されるべきかについての「社会的合意」は、暗黙のうちにすでに存在する。その条件とは刑法三七条「緊急避難」、すなわち正当防衛の規定である。これは人類の「常識」を条文化したものといっていい。「自己または他人の生命、身体、自由、財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、(過剰防衛でないかぎり)、罰しない。」というものである。
 自衛に関する議論は、これで尽きると思う。国連の決議とか安保条約とかいうことは、すべてこの原則から派生するものである。

 大学全入時代
 p128-30
 最近の調査によると、小学六年の段階ですでに算数の授業を理解できなくなってしまった子供が過半数を超えている。割り算くらいのところでわからなくなってしまって、授業を聞くのをやめてしまうのである。以降、その子達は、「ものを習う」仕方そのものを身につけずに長じてしまう。「自分が知らない情報、自分が習熟していない技術」の「習い方」がわからない人になって行く。教えてくれる人との対話的、双方向的コミュニケーションの仕方がわからないからである。
 こうした子供たちはもちろん大学でも何一つ学ぶことができない。そして無意味に過ぎた十数年の学校教育の果てに、低賃金の未熟練労働に就くことになるのだ。仕事をしていても、熟練の仕方を教えてくれる人と対話することができない。「大卒ブルーカラー」の大量発生である。
 p139
 モンスターママやパパは、いじめ問題などが起きると、「学校ではしつけやモラルなどをどう教えているのか」とよく言う。その言葉の裏にあるのは「こっちは忙しいんだから、そういう面倒くさい仕事は学校がやってくれよ」という、「なめた」態度である。親たちは「しつけやモラル」の大事さはわかっているはずだが、それを教えるやりかたがわからないので、誰かに押し付けようとしているのだ。
 そうした親の子供はそうした親の態度のうちに、教育機関に対する「なめた」態度を学び取る。親の言葉遣いの「本当の意味」をみごとに理解する。なにせ、ずっと一緒に暮らしているのだから。そしてその「なめた」態度を学校に対して、自分で小出しにし始める。