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高橋源一郎 『ニッポンの小説』

 小説って何だろう、小説を書くとはどういうことだろうか、ということを、本音の言葉で、500ページもダラダラと書き連ねた、よく分からない本。日本語口語文章が明治20-30年ごろに生まれたいきさつだけを、分かりやすく教えてもらった。
 p33-5
 二葉亭四迷が明治20年ごろにツルゲーネフを訳したものが、国木田独歩の机の上に置かれたのはまったくの偶然でした。その本を独歩の机に勝手に置いていったのは作家志望の青年・田山花袋であり、そもそもこの二人はその日会ったばかりでした。
 四迷訳のツルゲーネフにはこんなことが書かれてありました。「秋九月中旬というころ、一日わたしは樺の林の中にいた。朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間には時々生暖かい日かげが射した。ひどく気まぐれな天気の日だった。淡々しい白雲が空一面にたなびいたかと思うと瞬く間にあちこちで雲が切れ、澄んでさかしげに見える人の目のように朗らかに晴れた青空がのぞいていた。・・・・・・・・・。」
 国木田独歩がその直前まで書いていたのは次のような文でした。「嗚呼吾生まれて人間となり、来たりて斯世に住み、住みて斯時代に遇ひ、知らず期せずして斯境遇を享く。自然!斯高遠、沈黙、無限、偉大、微妙なる吾が周囲の斯自然、これ何ぞや。」

 二葉亭四迷ツルゲーネフから、ロシア語の散文とその精神から、作り出した文章の内部ではいったい何が起こっていたのでしょうか。
 たとえば、「吾は何ぞ」というような問いが捨てられました。
 同じように、自然の風景の中に、過去の文学的遺産を見出そうとするような意識が捨てられました。美しい文章、すなわち、言葉や音の微妙な組み合わせに美を発見しようとする意識が捨てられました。(本ブログ2015年3月23日付のような、神戸、須磨、明石といえば、源氏物語平家物語の名場面一節一節を書かずばすまない芭蕉の心理機制を多としなかったということです。)
 そして、最後に残ったのは風景です。でもそこには「自然」しか残らなかったのでしょうか。違います。「自然」が残ったのですから、それを見ている「わたし」もまた残ったのです。デカルトのコギトです。「わたし」の実在だけが、「文学」として信じうる唯一の「わたし」だったのです。