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岸田 秀 『ものぐさ精神分析』(中公文庫)1/8

 著者の名前は知っていたがときどき新聞に載る雑文しか知らなかった。それはそれで鋭いものだったが、なぜか本は一冊も読んだことはなかった。恥ずかしいことながらこの年になって久しぶりに昂奮して隅々まで読んだ。
 歴史、性、時間と空間、言語、心理学、セルフイメージなどについて、よくもここまで断言できるものだとあきれるほど痛快な理屈が並べられている。所論の一つ一つについてわたしが論評できることは何もない。「精神病者が物理的現実を誤認することはない」とか「異常性格なるものは観察者の無知と偏見が作り出した神話ではないのか」などという、乱暴な議論もいっぱいある。しかしそんな些末はどうでもいいと思わせてしまう痛快さに満ち満ちている。
 個人とは私的幻想(思い込み)としての自己であり、国家など個人を超えるあらゆる共同体とは私的幻想の総体としての思い込み共同体である、という基本認識が全編を貫いている。この基本認識に立っていわゆる社会常識として流通しているあらゆる価値、意味、観念が切り刻まれている。文庫版になって30年以上になるが、時代遅れになっている論考はまったくない。

 皇国史観は、一度も外国に対峙したことのない
 甘やかされた子供国民の誇大妄想体系である

 P14-23
 はじめに結論めいたことを言えば、日本国民は精神分裂病的である。・・・・この病的素質を作ったのは1853年のペリー来航である。鎖国していた徳川時代は、個人で言えば、外的世界を知らないナルチシズムの時期に相当する。日本は極東の島国という特異な地理的条件のため、他の民族、特にヨーロッパの諸民族とくらべると、はるかに長いあいだこのナルチシズムの自閉的状態に安住し続けることができた。有史以来、一度として外国の侵略や支配を受けたことのない、いわば甘やかされた子供であった。
 ・・・・皇国史観はまさしくこの甘やかされた子供の誇大妄想体系である。分裂病者が現実の両親を自分に生命を与えた起源として認めず、神の子であるとか、皇帝の落胤であるとか称する(血統妄想)のと同じように、天皇万世一系が信じられ、日本文化の独自性が強調され、日本文化の起源における朝鮮や中国の役割は不当に過小評価された。日本の古代史は現実の歴史であってはならなかった。神話こそ真実でなければならなかった。
 はたからどれほどおかしな、不合理なものに見えようとも、病者の妄想体系は維持された。内的自己の独自性を支えるために必要だったからである。いっさいの世俗的欲望とは無縁で、すべてのことに責任があると同時にすべてのことに責任がなく、純粋にして完全無欠、神聖にして不可侵、ただ無私無償の献身をささげることのみ許されるという天皇像は、この純化された内的自己の理想像である。
 明治維新が成り、開国論(外的自己)と攘夷論(内的自己)との抗争は一応前者の勝利に終わり、後者は神風連の乱から西南の役にいたる一聯の事件を通じて散発的に吹き出したものの、深く潜行することになった。だがもちろん消滅したわけではない。抑圧されたものは必ずいつかは回帰する。開国は一時の便法であり、本音は攘夷にあった。
 政治機構から風俗習慣まで急激な欧米化が実行された。不平等条約の改定をめざして、一方では富国強兵が叫ばれ、他方ではグロテスクなほど卑屈な鹿鳴館外交が展開された。これらのことは和魂洋才というスローガンによって見事に合理化された。
 和魂洋才とは外面と内面を使い分けるということである。これこそまさに精神分裂病者が試みることである。・・・・・内的自己にとって、欧米諸国に屈従する外的自己は、その存在を否認されなければならない。それは、いやが上にも純化された内的自己の自尊心に突き刺さった棘である。だから外的自己は非自己化され、外部に投影される。その投影の対象に選ばれた不運な国が朝鮮であった。征韓論心理的基盤はここにある。・・・・朝鮮人は大多数の日本人が非自己化した外的自己なのだから、「同化」政策こそ朝鮮支配の基本であった。建前として差別はタブーであり、朝鮮人も同じく天皇の赤子なのだった。ヨーロッパ人は、当たり前のこととして、おおらかに堂々と差別を行ってきたが、日本人は、後ろめたさを覚えながらコソコソ隠微に朝鮮人を差別していた。つまり朝鮮人は日本人(の内的自己)にとって劣等な自己だったのである。

 太平洋戦争は軍部が独走したのではない
 自分を見つめられなかった国民自身が軍部に同意した戦争である

 対米英宣戦布告はまさしく精神分裂病の発病である。はたの者には突然奇妙な言動を始めたと見えるが、発狂した者の主観としては真剣なのであって、これまで無理やりにかぶせられていた偽りの自己の仮面をかなぐり捨て、真の自己に従って生きる決心をしたときが、すなわち発狂なのである。
 外的自己と内的自己の分裂が悪循環的に進行し、外的自己が内的自己にとって耐えがたく重苦しい圧迫となって限界に達したとき、それまで内奥に隠されていた内的自己が、その圧迫を押しのけて外に現れたのである。内奥に押し込められて現実の世界との接触を絶たれていた内的自己は、当然のことながら現実感覚を失っており妄想的になっている。だから、当人が真の自己とみなしている内的自己に基づく行動は、はた目には狂った、ずれた行動と映る。
 ・・・・軍部が強制的に国民を戦争に引きずり込んだと言うのは誤りである。いくら忠君愛国と絶対服従の道徳を教え込まれていたとしても、国民の大半の意志に反することを一部の支配者が強制できるものではない。この戦争は国民の大半が支持した、といって悪ければ、国民の大半がおのれ自身の内的自己に引きずられて同意した戦争であった。軍部にのみ責任をなすりつけて、国民自身における外的自己と内的自己の分裂の状態への反省を欠くならば、再び同じ失敗を犯す危険があるだろう。