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内田 樹 『昭和のエートス』(文春文庫)1/2

 私的昭和人論
 p19-21
 敗戦のときすでに40歳を超えていた人々には、それ以下の世代にあった「敗戦によって自分がぽっきり折れる」ような断絶感はめったに見られない。知識人でいえば丸山真男埴谷雄高小林秀雄加藤周一のような人である。敗戦は、それを予測していた彼らにとっては、大日本帝国の存在様態に対するおのれの明察を裏付けることではあっても、主体内部がぽっきり折れるような性質の経験ではなかった。
 しかし1937年生まれ、当時八歳の早熟の少年だった養老孟司にとっては、断絶の衝撃は十分すぎるものだった。養老孟司は自分で言っている。「私が脳について考えはじめたのは、8月15日に<だまされた>と思った世代だからである。<だまされた>子供は<だまされない状態>とはなにか、それを自然に追求する。人間について考えるのであれば、言葉は悪いが、モノとしての人間、すなわち身体に行き着く。だから私は医学部を出たのに、死者を対象とする解剖学を選んだ。」
 p33
 <だまされた>養老孟司は東大闘争で、駒場のグラウンドに竹槍を持って整列した数百の全共闘学生を見たとき、強い既視感を覚えたと書いている。とうに葬られたはずの過去が甦ってきたように、養老には見えたのである。彼らは教授連の研究室に乱入して、丸山真男に言わせれば、「ナチスも日本軍部もしなかった」乱暴狼藉を尽くした。
 一方、吉本隆明はこの時期、全共闘の学生から圧倒的な支持を得ていた。彼のそのときの知的威信に類するものを享受した思想家は、私の知る限り存在しない。なぜ吉本隆明にそれほど人気があったのか、私はその理由が当時はわからなかった。今では少しわかる。
 政治史的な区分をすれば、全共闘運動家たちの「思想」は、皇道派テロリズムや「八紘一宇」と同じカテゴリーに含めることができる。それはわけ知り顔の「上昇型インテリゲンチア」の「近代主義」を一蹴するために、「歴史に要請されて登場した、日本封建制の優性遺伝子」の何度目かのアヴァター「変身」だったのである。
 吉本自身は全共闘運動を特に熱く支持していたわけではない。ただ彼は、「思考の本格的な対象として一度も対決されなかったもの=日本封建制の優性遺伝子=意識下に隠れ続けるもの」は、必ず症状として回帰するであろうことを正しく予見しただけである。新左翼(=日本封建制の優性遺伝子)出現の必然性を誤りなく捉えたことで、吉本はその知的威信を構築したのである。