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岸田 秀 『ものぐさ精神分析』(中公文庫)6/8

 <時間と空間の起源>

 竜宮城を去ったのに乙姫を求め、欲望が挫折することを感じたとき
 浦島は「時間」に組み込まれた

 p220−4
 人間は本質的に(過ぎ去ってしまった時間にとらわれる)アナクロニズムの存在である。人間はいわゆる固着や退行を起こしうる存在、つまり神経症になりうる存在と言い換えても、その意味するところは同じである。
 過去が過去として充足し、現在が現在として充足しているならば、時間は不必要である。そうでないがゆえにわれわれは、犯行現場に必ず立ち戻ると言われている犯人のように、多かれ少なかれ過去に釘付けになっていて、つねに過去をもう一度やり直したがっており、そして、過去を過去をもう一度やり直すチャンスが得られるかもしれない時点として、過去から現在へと流れる線の延長上に未来という時点を設定したのである。
 未来とは、逆方向に投影された過去、仮装された過去にすぎない。未来とは修正されるであろう過去である。過去において満足されなかった欲望は数かぎりなく、悔恨の種は尽きないから、未来は無限でなければならない。未来が限定されること、すなわち死をわれわれが恐れるのは、過去を修正するチャンスが限定されるからである。死刑や死病を宣告された者の絶望とは、悔恨に満ちた過去をついにこのままにとどめざるをえなくなった者の絶望である。この意味において、死の恐怖を知るのは人間のみである。
 欲望の不満がないなら、時間はないということは、われわれの日常的経験に照らしても明らかである。われわれは、やりたいことをやって夢中で過ごした時間は短く感じる。欲望の満足を遮られて我慢しなければならなかった時間は長く感じる。
 浦島太郎が竜宮城で時間の流れを感じなかったのも同じ理由からで、すべてが満足されるユートピアには時間はない。竜宮城にも四季はあるが、春夏秋冬はそれぞれ部屋の四方の壁の窓に景色として映っているものであって、あるものが過ぎ去り死に近づいてゆくという、季節から季節への時間の流れではない。
 浦島が時間を知るのは、乙姫の願いを振り切って、愚かにも楽園から現実の世界に帰り、その言いつけにそむいて玉手箱を開けたときである(ついでに言えば、玉手箱は乙姫の性器のシンボルであり、浦島を乗せる亀は浦島自身のペニスのシンボルである)。浦島は、もはや竜宮城にいないのに竜宮城の乙姫を性的に求めたのであった。それは挫折せざるを得ない欲望であり、挫折せざるを得ない欲望をもったとき、浦島は時間に組み込まれたのであった。
 浦島太郎の物語は、性的欲望に仮託された楽園復帰願望の物語であり、われわれが時間を持ったのは、二度とふたたび帰れない楽園に帰りたいという空しい願望を絶ち切れない存在、いいかえれば帰らぬ昔の夢をいつまでも追い続ける存在だからであることを暗示している。
 蛇足を言えば、確かに見知った家や道はあるのだが、誰ひとり知る人のいないなじめない土地で、玉手箱を開けてしまった浦島の姿は、軽率にも楽園から飛び出してきて、確かに現実の世界ではあるのだが、何か変だ、どこか間違っていると居心地わるく場違いな感じを抱きながら老い果ててゆくわれわれの姿であり、われわれの嘆きである。