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内田 樹 『子どもは判ってくれない』(文春文庫)2/2

 幻想は「兌換できない紙幣」ではない
 p130-8
 多くの知識人がおっしゃっている。「母性愛というのは近代の父権制の下で、女性を家庭に緊縛するために発明された幻想である」と。
 話はそれほど簡単だろうか。国家は幻想であると断言する人も多いが、その人も「菊のご紋章入りのパスポート」を携行しないと、アメリカで理路整然としたご自分の学説を披露するために飛行機に乗ることができない。外国旅行するとき、国家は幻想ではない。刑事事件を起こせば収監される。罪人にとって国家は幻想ではなく、リアルな暴力装置である。
 貨幣は幻想だと断定する人もいる。まことに貨幣は、流通するつまり信用されるからこそ貨幣なのだから、たしかに幻想である。しかし寡聞にして、貨幣=幻想説を開陳した思想化が書物の印税収入を受け取らなかったという話を私は知らない。
 なぜ、この「・・・・・・は幻想である」的な理説がなかなかうまく現実を説明できないのか。それは私の見るところ、これらの論者がしばしば「幻想」に「現実」を対置させるという単純な「真贋二元論」を採用しているからである。
 たとえばこれらの論者は、母性愛幻想に緊縛された女性<A>に比べ、幻想を脱却した女性は「経済的・精神的自立」を果たし、父にも夫にも家にも共同体にも国家にも隷属しない独立した人間<B>となる、という言い方をする。しかしこのことは母性愛幻想を別の幻想と取り替えただけなのではないのか。「経済的・精神的自立」を果たし、父にも夫にも家にも共同体にも国家にも隷属しない独立した人間<B>などというものが、かつて人類史上に実在したことはない。そうありたいとするイデオロギーは別として。
 ある種の幻想に乗ることによってしか、私たちはこの社会で「経済的・精神的自立」を果たすことはできない。幻想というのは鳥にとっての空気抵抗、魚にとっての水の抵抗のようなものであり、それなしに私たちはこの幻想の瀰漫した社会では一歩たりとも前に進むことができない。

 「日本的なもの」への嫌悪感
 p276
 東京で生まれ、北海道で育ち、オーストラリアで青年になった日本人の友人が、私のブログに「日本的なもの」への嫌悪感を寄せてきた。
 「私は生まれはたまたま東京でしたが、育ちは北海道、オーストラリアで大きくなって、今教員をしているのは鹿児島です。いわば日本の周縁を渡り歩いている人間です。オーストラリアから初めて日本に「来た」ときの「嫌な」気持ちはいまだに忘れることができません。白樺と原生林が点在する北海道の大地でキリスト教徒として育てられ(たせいか)、神社やお寺が「日本的」と教えられたときの「嫌悪感」もまた忘れることができません。白砂青松富士日輪などは私にとってもっとも縁遠い風景です。能も歌舞伎も、私にとって「日本的」ではありません。チャンバラ映画や時代劇を最初から最後まで見通したことは、数回しかありません。演歌や浪花節が聞えてくると頭痛がして耳をふさぎたくなります。おそらく日本語だけを例外として、この国で公式に「日本的」とされているものは、私にとって「日本的」ではありません。こうした話はあまりしたことがありませんが、日本人を装わねばならない面倒くささは、ふだんはなかなか口に出して言えないものだけに、とても厄介です。ただ、自分が絶対に日本の「表街道」を歩けない人間であるという諦めは、若い頃からいつも持っています。」

 さよなら、アメリカ
 p313
 アメリカは先進国ではまれな「多産の国」である。出生率は2.0を超えている。理由は、移民ヒスパニックと黒人たちが多産だからである。ということは、あと数十年でアメリカは白人の国ではなくなるということを意味している。移民ヒスパニックと黒人たちの子孫が、メイフラワー号的なエートスを継承するとは思われない。
 1915年製作のグリフィス『国民の創生』を見ると分かることがある。この映画はアメリカ人の「国民的統合」意欲をみごとに図像化しているが、その意欲をドライブしているのは「ニグロにアメリカを渡すな」という奇怪な怨念だ。ハリウッドはほんの80年前まで、「クー・クラックス・クラン演じる怪傑白頭巾」を作っていたのである。
 そのあと、さすがにこれではあまりに差別的だというので、「騎兵隊がインディアンを殺す」映画に、ハリウッドの大勢はシフトした。そのうちに、先住民を虐殺するのもいかがなものかということで、「米兵がナチを殺す」映画を大量に作った。1980年代からは「アメリカ人のヒーローがアラブ系テロリストを殺す」映画が主流である。そういう国なのである。もうそろそろそういうことをやめた方がいいのではないか。