アクセス数:アクセスカウンター

岩井克人『資本主義を語る』(ちくま学芸文庫)

 金貨の価値は金鉱労働者の労働価値に等しい、
 とマルクスは本当に信じていたふしがある

 p149-51
 非常に逆説的ですが、マルクスアダム・スミスよりもはるかに徹底した労働価値論者です。これは、当然、人と人との直接的な関係が人間の本来的な関係であるという、マルクスユートピア思想と裏腹な関係になっています。
 マルクスは労働価値説というのをまず徹底的に信じて、どんな社会でも社会的な生産が行われれば、その生産に投入された労働の大きさによって価値が決まるとしています。そして、(おそらく無意識のうちではいけないと思っていたフシがありますが、)「貨幣は生まれながらにして金銀ではないが、<金>というものは生まれながらの貨幣である」 といって、貨幣を最終的には「金」という商品に還元してしまうんです。そして金の価値を、金を掘る人の「労働」すなわち「労働価値」で決定してしまう。ここで、マルクスはなりふりかまわず、本来は抽象的な原理であるべき「労働価値」を素人でさえ鼻白むようなむき出しのかたちで持ち出しています。
 どうしてこんな論理展開をマルクスはしたのでしょう。
 資本主義社会では、生産が生み出す価値というものは、交換価値という形態を持たざるをえない。そして、交換価値はかならず「貨幣」という媒介を必要とする。
 「商品」が価値をもつのは、「貨幣」によって交換可能性を与えられるからであり、貨幣の「価値」は「商品」によって交換可能性を与えられるから生まれる・・・・・・・、貨幣はどうして価値をもつのかという問いは、素朴な「経済」学の中にとどまるかぎり、この循環論法に陥るのを避けることはできません。
 なのに、マルクスは初めは労働価値説から出発しながら、続いて上述の商品の「交換価値」を分析することで労働価値説から浮き上がってしまいます。そして「貨幣は金だ」というかたちでもう一度、こんどは素人もびっくりするような労働価値説に戻ってしまう。
 マルクスの、人と人との直接的な関係が人間の本来的な関係であるという 「ヒューマニズムユートピア思想」 と、古典主義経済学の批判学説としての 「労働価値説」 は、カール・マルクス個人の深淵のところで密接に結びついているのですね。そして、最終的にこのユートピア思想に殉じてしまいます。

 マルクス個人の場合は、ひとりのきわめて優れた思想家内部の人生の問題ですから、矛盾があってもそれはそれでよかったのですが、マルクス「主義」となると、多くの亜流や大きな国家がシステムとして、その矛盾を全部受け継いだわけです。金鉱で働く労働者が掘り出した金でつくる金貨の商品価値は、その労働者の労働価値に等しいなんて、誰が考えてもふざけた理論です。
 なぜなら、その理論で行けば、革命ソヴィエトにおいては金鉱労働者が一定時間働けば、その労働価値に見合った金(貨)が必ず国庫に収納されることになります。労働者が勤勉に働く社会主義国家は栄えて栄えて、この世に天国が出現したようになります。
 もちろんそんなめでたいことには全くなりませんでした。どの産業に働く人々も、そんな利益を国家に与えることはできませんでした。20世紀末の社会主義国家の終焉の理由は、小学生レベルまで話を簡単にしてしまえば、そういうことです。