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内田 樹 『街場の現代思想』(文春文庫)

 いくら英才教育しても、自分の子を「生まれつきの文化貴族」にはできない
 p22-33
 文化資本には、「家庭」において獲得された趣味や教養やマナーと、「学校」において学習した獲得された知識、技能、感性の二種類がある。
 家の書斎にあった万巻の書の読破とか、毎週家族で楽しんだのでいつの間にか身についた絶対音感とか、家のギャラリーのセザンヌ池大雅で培われた鑑定眼などというのは前者である。学歴、資格、人脈、信用のような文化資本は後者にあたる。
 見比べればすぐに分かるとおり、「家庭で自然に身についた文化資本」と「学校で努力して身につけた文化資本」では、ありようがまるで違う。
 その差は、それを身につけた人の「ゆとり」、あるいは「屈託のなさ」のうちにある。芸術作品を前にして「ぽわん」としていられること、この余裕が「育ちのよさ」の刻印なのである。
 「学歴による文化貴族」が決して口にできないのは「知らない」という言葉である。「知らない」という告白が、その人が「ほんらい所属する階層」を暴露してしまうことを恐れるからである。
 一方、「生まれつきの文化貴族」は、平然と「知らない」と言うことができる。その人にとって、芸術作品の鑑定眼は、一度として努力して「獲得すべきもの」として意識されたことがないからである。
 当然の話であるが、音楽や絵画についても、ワインの楽しみ方についても、親しみの深さや享受のあり方の違いは、判定の「当否」の問題ではない。熟視と感覚に基づいて「経験」を語る人間が、自己訓練を通じて獲得された「知識」を語る人間よりつねに正しい判断をするということはない。しかし、「知識」を語る人間が「経験」を語る人間に対してつねにある種の「気後れ」を覚えることは事実である。自然にふるまっている人間に「気圧される」こと、自分の感覚や判断に迷いを感じてしまうこと、自分が「いてはならないが所に踏み込んだ」ような異郷感を覚えてしまうこと、この微妙な「場違い」感のうちに、文化資本の差異は棲まっている。
 たとえば、自分の子供を「生まれつきの文化貴族」にしようと必死になって英才教育している人々は、あらわに「ビンボくさい」。分刻みスケジュールでバレエやピアノや武道を習わせる親たちは、「文化資本を金で買う」という発想そのものが、当の子供たちの文化資本の身体化を妨害していることに気づいていない。

 敬語とは、ヤバイ相手からの攻撃を「身をよじらせて」避けるための言葉である
 p82-4
 「敬」という字の原義は「身をよじる」という意味である。何か危ないものが来たときに、人間は身をよじる。死球をギリギリで避けるバッターの、あのイメージである。
 敬語というのは、(たとえば学校の先生や、会社の上司や、彼女の両親や、隣家の老人といった)「自分に災いをもたらすかもしれないもの」と関係しないでは済まされない局面で、身をよじって相手からの攻撃をやり過ごすための生存戦略の言葉なのである。自分が傷つかないためには「身をよじらせて」攻撃を避けなければならない。だから「鬼神は敬してこれを遠ざく」と言う。だからピッチャーにとって鬼神のようなバッターは「敬遠」される。
 若い、社会的に未熟な人がしてはいけないのは、そういう鬼神かもしれない相手に「素」で立ち向かうことである。自分の「本音」や「素顔」をさらすことは、自己防衛上最低の戦略である。「自分の思いを、自分の言葉で話す」のは、もっと親密な相手のために取っておけばいい。

 大学とは、存在することさえ知らなかったものに偶然出会うための場である
 p201
 高等教育においていちばん大切なのは、学生が「すでに知っている知識」を量的拡大することではない。そんなものは各種専門学校に任せておけばいい。そういうことではなく、学生に「そんなものがこの世に存在することさえ知らなかったような学術的知見やスキル」に、不意に出くわす場を提供することである。
 たとえば「ハイデガー存在論」や「レヴィナス倫理学」というような学術情報は、ふつうの中高生の知的スキームには存在しない。
 キャンパスという無意味に広い空間が必要なのは、そこに行くと「自分が知りたいことに出会える」からではない。そこに行くと「自分がその存在を知らないことさえ知らなかったものに偶然出くわす」可能性があるからである。「大学の中をふらふらする」という作業がどうしても必要なのはそのためである。