アクセス数:アクセスカウンター

養老孟司 『無思想の発見』(ちくま新書)1/2

 日本人の「私」は、個人ではなく「家」の構成員である
 p21・26・31
 「個人は社会を構成する最小単位であり、その内部が私である」とされる。ところが日本の世間ではそうではない。日本語では「私」という言葉が、「個人」SELFという意味と、「公私の別」というときの「私(わたくし)」PRIVATEという、二つの意味をもっている。
 話を早くすれば、日本の世間における、私というものの最小の「公的」単位は、個人ではなく「家」だったのである。日本の世間は、「家という公的な私的単位」が集まって構成されていたのである。そういえば、年配の人たちはたちどころに理解するであろう。
 そう思えば、嫁姑とは何だったのかがわかるだろう。ある私的規則を持った私的空間から、別の私的規則を持った私的空間に移動する。それがお嫁さんである。
 西洋では家族の意味はおそらく逆で、近代の個人が集まって家族を作るんだから、家族が最小の公的共同体なのである。家族は公的な私的単位ではない。だからイギリス人が遺書を書いたら、遺産だって奥さんに行くとは限らない。「だれに財産を分けようが、俺の勝手だろ」なのである。

 多くの人に理解される普遍的な思想のむずかしさ
 p56
 ネアンデルタール人以降、現生人類の社会が成立したとき、もっとも強くかかった淘汰圧は言語使用ではないかと、私は考えている。現にいまでも、言語が使えないことは社会生活を徹底的に妨害し、言語機能が欠ける人たちを徹底して排除しようとする。
 言語と意識はほとんど並行したはたらきである。言語の機能はもちろん、たがいに了解することである。それなら「了解できない」人は排除されるはずである。それはいまの社会でもさまざまな形で問題になっている。
 p57・59
 もっと「個性的」になろう、と現代人は言う。しかし、ほとんどの人は「わがまま」と「個性」を混同している。つまり「個性的である自分のまま」だから、多くに人に理解される普遍的な思想に到達しない。
 ほとんどの人の個性は、偶然である外的条件、家族、地域、友人、周囲の自然環境などに左右されて生じたものである。だから人によって当然異なる。そこでだけ通用する自分を自分だと信じているから、ただの「わがまま」な人間が出来上がってしまう。世界中どこでも通用し、百年たっても通用する、そんなことを考えることができない人が出来上がってしまう。