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金森 修 『動物に魂はあるのか』(中公新書)

 ギリシア、ローマ以来、誰もが知っている著名哲学者たちが、いわゆる「(人間を含む)動物の魂」なるものについて、本気で考えてきた。この本では、それが中世、近代、現代でどのように変遷してきたのかについて、きわめて分かりやすく紹介されている。
 

 解析学の天才であったことが「生命は解析できる」とデカルトに直観させた
 p64
 デカルトの時代、動物の「魂」について私たちは以下のように考えるのが普通だった。
 「動物がわれわれよりもよく行うことができるものがたくさんあることを、私はよく知っている。だがそんなことでは驚かない。それは動物が、ちょうど時計のように、自然のバネによって動くということを示しているだけなのだ。時計は、われわれの判断よりも、いっそう正確に時間を指し示すではないか。そしておそらく、ツバメが春にやってくるときも、彼らは時計のようにしてやってくるのだ。・・・・・・・・・それにもし、動物が思考をもっているとすれば、彼らにも不滅の魂が宿っているはずだということになる。だが牡蠣や海面のような生物にさえ、魂が宿っているというのだろうか。」
 これはデカルトの有名な「動物機械論」だが、この背景には「神が、人間と動物をそのようにこの世界をつくられたのだから、仕方がない」というキリスト教の不可知論だけではなく、デカルトが数学の天才であったことが深く関係している。
 デカルトの活躍したのはニュートン微積分法を「発見」する数十年も前のことである。しかも彼は図形(=空間)的な形を代数的に記述する「解析学」の創始者でもあった。このことが「世界(=生物をふくむあらゆる「形」)は代数的に正確に記述できる」という演繹的直観につながった。そしてコギトする存在=人間理性だけが世界の成り立ちを解析できるのであり、動物界は、解析の対象となる機械にすぎないと断定された。

 デカルトの論理では、人間も、デカルト派以外は「解析可能」になってしまうおそれがあった
 デカルトの「動物機械論」は17世紀のフランスに圧倒的な衝撃を与えたが、彼のあまりの傲岸な性格もあってか、死後しばらくすると「獣は純粋な機械なのか」というガッサンディの論文が人気を呼んだらしい。
 p97
 「近年、動物を時計仕掛けの機械だとする見方が出てきているが、誰が本気で説得されるだろうか。主人に鞭打たれるとき歯を食いしばる動物が、主人に呼ばれてうれしそうにドアを足で掻くその姿が機械だと誰が思うだろうか。・・・・・デカルト風に動物を機械だとする強弁するひとは、きっと聾唖者や、中国人、イロコイ族のことも機械だと見るようになり、ただ自分だけが感情と理性を持つとみなすのだろう。」
 このガッサンディの論はデカルトの「動物機械論」に対する、当時もっとも強固な疑問符だったと言える。デカルトの「動物機械論」は「自」ではなく「他」を単純化しへん貶下する眼差しを内包させており、その「他」のカテゴリーには遅かれ早かれ人間以外の動物だけではなく、デカルト派以外の人間自身も入ることになるのが確かだからである。
 
 衝撃的だったユクスキュルの「環境世界説」
 p180
 「動物霊魂論」華やかなりし17、18世紀とは違い、20世紀初頭になると生物一般についての実証的知見が膨大に蓄積されてきた。そのひとりが「環境世界説」で人文思想界にも大きな影響を与えた生物学者ユクスキュルである。ユクスキュルの『生物から見た世界』(岩波文庫)には次のような記述がある。
 「動物は、環境の多様な要素の中から、その動物にとって意味のあるものだけを知覚する。そしてそれへの特定の反応をすることで生命活動をする。これが「環境世界」である。例えばある種のダニはおぼろげな光、酪酸の臭い、37度前後の温度、毛のない皮膚、のみに反応する。そのダニにとっては鳥の鳴き声も赤い花もまったく関係がなく、それらは存在しないも同然だ。味さえ、そのダニは感知しない。「おぼろげな光、酪酸の臭い、37度前後の温度、毛のない皮膚」の「貧しい」環境世界だけで、そのダニが生き続け、子孫を残すのには十分なのだ。その意味では、その環境世界は別に「貧しく」はないのだ。」
 ユクスキュルの「環境世界説」は、われわれがなにげなく生き続けているこの世界が客観的に一つであるわけではなく、海綿やマグロ、ヒバリやトカゲにとっては、それぞれに別の意味と現われをもつという事実を、われわれに否応なく意識化させた。