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金森 修 『ゴーレムの生命論』(平凡社新書)

 <ゴーレム>というのはユダヤ教のラビが神のワザをまねて土塊から作った<ほぼ人間>のこと。日本人にはなじみのない概念だ。
 神は不可知の意図と万能の技術を持つのだから、土塊(アダマ)から作っても人は「完全な」人(アダム)となることができる。だが、神ではなくラビが同じことをしようとすると、そのラビがいかに高徳であり、神秘主義的魔術に秀でていようとも、外見上ほぼ完璧に作られたゴーレム<ほぼ人間>は、例えば言葉を一切吐き出すことができない。
 神が人間の鼻に「命の息を吹きいれ」ることで、土から作られた人の形が魂を持つようになるのだから、言葉を一切吐き出せないゴーレムは、「命の息を吹きいれ」られたことのない、つまり魂を持っていない生命であるほかはない。人の形はしていても、その一歩手前、いまだ人にならざる生命であるほかはない。

 ユダヤ教は、古代の宗教性が現在でもいきいきと残る、戒律の厳しい強力な宗教である。人間の命をとても大切にし、女性が妊娠、出産するということ自体に「奇蹟」の発現を見ている。ユダヤ教は人間の命、そして人間の魂のすばらしさに対する賛嘆に満ちた宗教であるといえる。
 だがその一方で、ユダヤ教は人間の命とは違う形式を持つ命に対しては、その処遇や位置づけを一変させて、厳しく過酷に扱うという傾向がある。この従来からよく指摘される有名な論点をゴーレム伝説に当てはめて「西洋文化圏域」の一特徴と呼び捨てるのはあまりに図式的かもしれないが、<ほぼ人間 ゴーレム>が人間と人間以外との間の大きな距離の象徴であることはたしかだろう。

 ところで21世紀に入って目を見張る進展を示している体性幹細胞、ES細胞、iPS細胞などの生命科学は、「途上の生命」・「未然の生命」を扱う科学である。「途上の生命」・「未然の生命」は「いまだ魂の入っていない生命」そのものにほかならず、その意味で現代的ゴーレムの研究であると言ってもいい。そしてこの分野においては、紀元前からの「ユダヤ民族の精神誌」的なものを想像せざるをえないほど、ユダヤ人学者の業績は抜きんでている。(p205)
 内田樹ユダヤ文化論』によれば、ノーベル賞自然科学部門のユダヤ人は2005年までに、医学生理学賞で48人(26%)、物理学賞で44人(25%)、化学賞で26人(18%)と突出している。ユダヤ人は世界人口の0.2%に過ぎないのだから、これは異常な数値である。
 ユダヤ人は世界に散っており、それぞれの社会に組み込まれているのだから、べつに「特殊な民族教育」を受けているわけではない。にもかかわらず、この異常な数字が存在するということは、民族誌的な仕方で継承されてきたある種の「極めて特異な思考の型」が存在することを想像せざるをえない。古代ラビたちの<ゴーレム>はその「思考の型」を具体的に指し示していないだろうか。