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内田 樹 『一人で生きられないのも芸のうち』(文春文庫)

 イスラム原理主義者はニッポンをバカにしている
 P35−6
 私は以前、どうして日本ではイスラム原理主義者のテロが起こらないかについて考えた。そのときに、日本でテロをしたら「テロリストから村八分にされる」からではないかという推理をしたことがある。なぜなら日本でテロをするなんて「赤子の手をひねる」ようなものだからだ。私がテロリストだったら、そんなやつが仲間うちで手柄話をすることを決して認めないだろう。
 それはテロリストたちが(自分たちの闘争資金を預けてある)スイスの銀行を襲わないのと同じ理由である。

 少子化と家族解体
 P45
 日本の家族が解体したのは、日本人の多くが家族がいない方が競争上有利であると人々が判断したからである。逆に、家族がいるほうが生き残る上で有利であると判断すれば、みんな争って家族の絆を打ち固めるだろう。家族の構成人数が競争上有利であると判断すれば、少子化は起こらないだろう。
 映画『ホテル・ルワンダ』で、ツチ族美しい隣人愛が成立したのは、その背後にフツ族の恐るべき無差別的暴力が渦巻いていたからである。彼らが隣人愛を選んだのは、極限状況で隣人を振り捨てて逃げ出せば、生き延びるチャンスは低いと(本能的に)判断したからである。
 日本では隣人愛が根づかない。そのわけは、「利己心を棄てて支え合う」ことで回避されるリスクと、「利己的に振る舞う」ことで得られる利益を秤にかけ、後者のほうが大であるとみなされているからである。それだけ日本が安全だということである。家族解体は平和のコストである。

 テレビ報道の「裏切り」は、裏切られる方が悪い
 P116
 メディアが正しいこと言っているかどうかに対する社会的信用の低下はひどいものである。まあ、身から出た錆である。
 新聞が、「テレビの言うことなら本当だろうと思っていたのに……裏切られた気持ちです」というようなナイーブなコメントを掲載しているのを見ると、「嘘つきやがれ」と思う。「市井の無垢(で無知)な視聴者」のポーズそのものが「テレビ化された定型」にほかならないからである。「テレビ、底なしの不信」というような新聞の見出しはまことに「いまどきの新聞」的である。
 私がメディアに期待するのは次のような言葉である。「テレビがこんなふうに構造的に腐敗していることを、同じメディア人として私は熟知していたが、それをあえて咎めなかった。なぜなら、テレビのようなメディアはどれほど腐っていても、ないよりはましだからだ。……だから、視聴者はテレビとは<90%のクズ情報に10%の貴重な情報>程度だと観念してテレビを見るべきなのだ。」
 頼むから、誰かそう言ってくれないか。

 戦後の政治・経済人に今なお残る旧戦陣訓
 p230
 旧日本軍の戦陣訓の「第七・必勝の信念」に「百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝し、勝たずば断じて已むべからず」とある。
 「百戦百勝」というのは病的妄想である。歴史上「百戦百勝」であった軍隊など、ひとつも存在しない。かんたんな推論ができる知性があれば、この戦陣訓は「祈り」ではありえても、戦闘のためのマニュアルとしては機能しなかったことはすぐわかるはずである。
 百戦百勝のはずの日本軍は、実際には局地戦でぼろぼろ負けた。戦争なのだから負けることがあるのは当たり前である。ひどくは恥ずかしいことでもあるまい。しかし日本軍の捕虜たちは、ルース・ベネディクト菊と刀』に活写されたように、異常な態度を取った。彼らは捕虜になったとたんに人格を一変させてしまったのである。
 ベネディクトはこれほど「勝者に媚びる捕虜」を見たことがなかった。捕虜の中には米軍の偵察機に同乗して「あそこが弾薬庫で、あそこが司令部です」と逐一報告した兵士さえあったという。
 この変節は戦後になっても、経済人たちの行動パターンとなって60年以上も続いている。戦陣訓を体内深くに染み込ませ、帰還してきた将兵にとって、まさにアメリカ経済こそが百戦百勝の「皇軍」だった。だからこそ、戦後の政治・経済人は沖縄を売ってでも何をしてでも、とにかく「皇軍」に仕えてきたのである。