アクセス数:アクセスカウンター

ウィングフィールド 『冬のフロスト』(創元推理文庫)

 養老孟司さんが激賞している現代イギリス警察小説「ジャック・フロスト警部シリーズ」の、邦訳のあるものでは最後のもの。
 養老さんが「あとがき」で言っていることだが、主人公フロストは一種のアンチヒーローである。人智を超えた推論の力で難しい事件を解決してゆく敏腕刑事ではない。それどころか、二日ほどの間に起きる、それぞれが微妙に絡み合った十件もの事件に一つも道筋をつけられず、揃いも揃ってろくでなしの部下の残業代と所要経費を積み重ねていくだけの、がさつなオッサン警部である。
 警察側の登場人物は(作品の巻ごとに変わる相棒刑事を除いて)毎回同じ。署長のマレット警視は自分の出世のためには部下の手柄を平気で横取りする男で、どっちに転ぶかわからない捜査の陣頭指揮は絶対に取らない。一日に十回はフロストに経費がかかりすぎだと小言を言ってくる。本作では近隣の署から転属してきたモーガン刑事が今回フロストに同行するのだが、これがまたとんでもない無能。張り込み中に居眠りして容疑者に逃げられるし、容疑者には取り調べ中にヒントを与えてしまうし、検死解剖立会い中にゲロを吐いて、検死官を怒らせてしまう。
 こんな上司と部下に挟まれながら、当のフロスト警部自身、武器は直感と偶然だけだ。シャーロック・ホームズや、アガサ・クリスティポアロのような高い知能の切れ味を期待してはいけない。だから読者は、どんどんたまっていく未解決事件がどうやって結末に導かれるのだろうと、読みながら心配になってしまう。作者は後半で「有力な証拠」を路上に落としておいて、それを「たまたま」フロストに見つけさせるみたいなことをするのではなかろうか」などと、読む側は余計な心配までしてしまう。だがそれはほんとに「余計な」、作家に失礼な心配だ。
 アガサ・クリスティでは、人物のせりふ一つ一つの意味を考えながら読者が「解決への階段」を一歩一歩上がっていくのだが、フロストシリーズを読んでいる場合、読者はそういう階段を一段ずつ登っていくことができない。読者はフロストとともに光明となるヒントを見つけたかと思うと、二、三ページ後にはその光明が思い違いであることを証明する事実が出てきたりして、それが何度も続いて、読者はフロストとともに激しい疲労感にやられてしまう。
 この疲労感は、たとえばポアロが披露する天才マジシャンの種明かしを読み解くときのような疲労感とは少し違う。謎解きゲームが終わった後の疲労感は、「正義の論理の前に悪は敗れ去った」のを見届けた一種快い疲れなのだが、フロストの場合は「正義」と「悪」の約束事がこれまでの警察小説のように守られておらず、「正義の論理の前に悪は敗れ去る」大団円を最後の最後になっても読者は予想できないのだ。たしかに事件は解決し、そこに至る推理の道になんら不自然なところはない。もちろん作者の「神の視点」も一切出てこない。嫌味たっぷりのユーモアと卑猥な冗談をのべつ幕なしにちりばめながらフロスト警部を走り回らせるウィングフィールドの力量はおそるべきものである。さすがシェイクスピアの国である。
 フロストのようなシリーズが、一本調子に「解決」に向かって突き進むロケット国家のアメリカではなく、酸いも甘いもかみ分けてしまったイギリスで生まれたのは、多分理由がある。
 犯罪は、「解決」されようとして起きるのではないのだ。犯罪の「解決」とは、ある立場や見地からの、問題の「移動」でしかないのだ。だから事件はいつでも起きるし、どこにでもいまでも起きているのだ。
 動物の間では、サルも含めて「犯罪」は発生しない。「犯罪」はその輪郭が言葉で描かれて他の事柄から腑分けされなければ、その「異常性」はだれにもそうと分別できない。言葉を持つ者だけが犯罪を認識し、行うことができる。