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内田 樹 『もう一度 村上春樹にご用心』(ARTES)1/2

 村上は、「政治的弱者」ではなく、「本態的に蝕まれた人」を書く。
 そのことが村上を世界的作家にしている。

 p47
 2009年、エルサレム賞の受賞スピーチで村上春樹は反骨の気合の入った有名なスピーチをした。私・内田がもっとも注目したのは(その後繰り返し引用されることになった)次の一節だった。
 「高く堅牢な壁とそれにぶつかって砕ける卵の間で、私はどんな場合でも卵の側につきます。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。」
 このフレーズが興味深いのは、「私は弱いものの味方である。なぜなら弱いものは正しいからだ」と言っていないことである。たとえ間違っていても私は弱いものの味方につく、村上春樹はそう語ったのである。
 こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」に依拠する人の口からは決して出てこない。彼らは必ず弱いものは「正しい」と言う。しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。それが「本態的に弱い」ということである。そして、村上春樹は「正しさ」について語ったことはない。つねに人間を蝕む「本態的な弱さ」について語っている。

 日本のオジサンがキュンと感じる「国民作家」の作品は、
 外国人には意味がよく理解できないし、気味悪いことも多い。

 p89
 この問題は、司馬遼太郎はどうして「国民作家」にとどまり、「世界作家」になれなかったのかということを、深いところで示唆している。
 村上春樹の翻訳は、さまざまな言語で数百冊のものが入手できる。外国の地方都市でも、村上春樹のペーパーバックは何冊でも買える。
 しかし司馬遼太郎の外国語訳を読むことはきわめて難しい。アマゾンで入手できる英語訳は『最後の将軍』、『韃靼疾風録』、『空海の風景』の三冊しかない。『竜馬が行く』も『坂之上の雲』も『世に棲む日々』も外国語では読めないのである。
 外国人が日本的心性について知りたいと思ったら、司馬遼太郎を読むのが捷径だと私は思うのだが、その道は閉ざされているのだ。ついでに言えば、藤沢周平池波正太郎はむろん、吉行淳之介安岡章太郎小島信夫も、埴谷雄高も、吉本隆明も、英語では読めない。
 この選択的な「不翻訳」は何を意味するのか。おそらくそれらのテキストを貫流している「日本のおじさんたちの胸に届く熱いもの」は、外国人には「よく分からない」もしくは「少し踏み込んで読み込もうとすると、なんか気持ち悪いものに出会う」ものなのである。
 言い換えれば、「日本の五○〜六○代のおじさんたちの胸にキュンとくるもの」はきわめて国際性に乏しい何か、「顔が見えないとこの百年言われ続けてきた」日本人のきわだって個性的な心性をかたちづくっている何か、だということである。
 p90
 この、世界の人々の困惑を解決したのが村上春樹である、というふうな仮説も 「あり」 なのではないか。つまり「国民作家」になった村上春樹は一面で「外国人読者にもリーダブルな司馬遼太郎」として読まれているということである。村上ファンも司馬ファンもどちらも激怒するだろうが。
 ちょっと話はずれるけれど、吉本隆明の英訳はないのだが、丸山真男の英訳は山のようにある。それは丸山真男が「外国人読者にもリーダブルな吉本隆明」だからではないかと私は思うのだが、それを言うと吉本ファンも丸山ファンもどちらも確実に激怒するだろう。