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内田 樹 『もう一度 村上春樹にご用心』(ARTES)2/2

 村上春樹だけが、「時代が激しく欠いているもの」を書く。 p124
 鋭敏な作家は、彼の時代に過剰に存在しているものについてはあまり書かない。書いても仕方がないからだ。拝金主義的なサラリーマンを活写しても、情緒の発達が遅れた非常識な青年たちの日常をこと細かに書いても、読者たちがそのような作品に深い感動を覚えることはない。(感心してみせるのは文学賞の選考委員たちくらいである。)
 村上春樹は、私たちの時代が「激しく欠いているもの」について、それを欠いていること自体が意識されないものについて、書く。それが欠けていることが気づかれないという当の事実がその時代の性格を決定しているものについて、書く。そして読者は、「自分は何に躓いたのか?」「自分は何に渇いているのか?」、そのような内発的な問いを手がかりに、「私たちの世界は何を欠いているのか」という、より包括的な問いにゆっくりと近づいてゆく。
 どうして村上春樹は世界的な支持を獲得できたのか? それは彼の小説に「激しく欠けていたもの」が、単に80〜90年代の日本というローカルな場所に固有の欠如だったからではなく、はるかに広汎な私たちの生きている世界全体に欠けているものだったからである。

 p140
 では、私たちが「ともに欠いているもの」とは何なのか。じつはそれは「内面の表出」や「自己表現」や「巨悪の告発」として言葉になることはできない。「欠落」というのは顕示的なしかたで表出されるものではないからだ。
 作家が、神でもいいしナントカ主義でもいいのだけれど、そういう自分の個人的な統一原理を顕示的なしかたで物語っても、世界性は獲得できない。実際には世界の秩序はだれも担保していないのではないか、そういう「恐怖」だけが世界標準であるからだ。
 カフカは、たぶんそのことだけを、あのややこしい物語にした。村上春樹は、その、カフカがむずかしく語った話を、ミリオンセラーになるような「やさしく見える」物語にした。「聖なる天蓋の柱を支える人の不在」という、万人が読める(と錯覚できる)物語にしたのである。
 村上春樹が日本の批評家たちにきわめて不評であることも、このことから説明はつく。日本の批評的知性は「作家の個人的な統一原理」を顕示的に語った作品だけをこれまで相手にしてきたからである。
 ただ、村上春樹には、ときどき次のようなカッコいいことを主人公に喋らせる悪い癖がある。たとえば『風の歌を聴け』で「僕」は「鼠」にこう告げる。 「強い人間なんてどこにもいやしない。強い振りのできる人間がいるだけさ。」などは、村上自身が訳したレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』のフィリップ・マーロウ探偵がいつも口にしそうな名台詞である。この「バーのカウンターでよく聞くようなせりふ」が、村上春樹の日本文壇の中での孤立をつくっているのかもしれない。
 『海辺のカフカ』のエンディングで、主人公と彼を捨てた母親(だったか)が真面目に交わす「私を許してくれますか」「許します」という、歯がゾクッと浮いてしまうような会話などは、「村上の小説にはシリアスな人間が生きていない」、とか、「村上にはリアルな社会への反逆がない」とか思っている既成文壇批評家に絶好の攻撃材料を与えるだろう。こういうわたし自身、『ねじまき鳥クロニクル』と『1Q84』で「牛河」という「遍在する怪人」を発見するまではそう思っていたのだから。