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カレル・チャペック 『山椒魚戦争』(岩波文庫)

 山椒魚戦争』は昔から、奇妙なタイトルのせいでずっと読みたいと思っていた本だった。それが今回金森修『ゴーレムの生命論』に示唆されて『ロボット』を読み、ついでだからということでこの『山椒魚戦争』も読んでみた。
 駄作ではなかった。 故国・チェコではチャペックは、『兵士シュヴェイクの冒険』のヤロスラフ・ハシェクに並び称される作家らしいから、ヨタ話の挿入の仕方、貴族ご婦人方の喋り方のあほらしさ、アメリカ、イギリス、フランスの政府首脳の不決断をこきおろすところなどはたいしたものである。
 『ロボット』は、労働者の代役をつとめさせるために、安上がりで文句も言わないロボットを作った人間が、数の増えたロボットに滅ぼされる、という話だった。科学技術の発展ははたして人間に幸福をもたらすようでいて、結局人類を滅亡に導くのではないかというチャペックを一生悩ませた課題を提示した作品だった。(訳者解説p441)
 『ロボット』は、大げさな台詞回しがよく似合う舞台劇の戯曲という形式上の制約が幸いして、「調子に乗って知恵と欲を働かせすぎた人類」にたいする、寓意にみちた喜劇としても読めるものだった。それに対して、おなじく一応SFとして書かれたこの『山椒魚戦争』は、戯曲という体裁をとっておらず、そのぶん、会話を普通の形にしているため、「人間はみずから作り出したものによって滅びるのではないか」という、ヒトラー台頭期のヨーロッパ知識人の危機感がストレートに出ている。
 当時の知識人の危機感とは第一次世界大戦終戦の1918年からヒトラー台頭期までの、ヨーロッパ文明没落の危機感のことである。 シュペングラー『西欧の没落』が社会に与えた衝撃は、今日では想像のできないものであったらしい。ポール・ヴァレリーは『精神の危機』(1919年)において、当時のヨーロッパ知識人のうち沈んだ気分を荘重な手紙文に書いている。
 「われわれの諸々の文明なるものは、今やわれわれもまた死を免れぬものであることを知っております。・・・・・・エラム、ニネヴェ、バビロンは美しい名ではあったが、これらの世界の完全な消滅は、われわれにとっては、その存在自身と同じくほとんど無意味でありました。 しかしフランス、イギリス、ロシア・・・これらもまた美しい名となるかもしれない。一個の文明は一個の生と同じ脆弱性を持つのであり、そして歴史の深淵の大いさはすべてを呑むに足ることを、われわれはいま眼のあたりに見るのであります。」

 それはともかく、『ロボット』を読んだときも思ったことだが、SF作品が「古典」として残るためには、<サイエンス>の部分に重心が置かれすぎるのはよくない。とくに 「ヒューマノイド」 の領域は人間がこの半世紀、残された知的フロンティア開拓のために多くの知的リソースを配分してきた分野であり、この分野での素人の危機感はただの「予言者的狂想曲」に終わってしまう恐れがある。技術の進み方が激しすぎて昨日のサイエンスはすぐに陳腐化してしまう。
 訳者・栗栖継氏は「人間の科学技術の発達は・・・・核兵器となってわれわれ人類を死滅させようとしている。さらに公害をいたるところに起こし、・・・・このままでは、地球上における人間の生存そのものが危ぶまれるほどのゆゆしい大問題になってきた。・・・カフカを(この人間の科学技術による人間自身の)「疎外」の予知者とすれば、チャペックを何の予知者と呼ぶべきか・・・・」と解説で言っているが、本書の読後の「イマイチ」感はたぶんここにある。つまり<科学技術の発達に阻害される私たち>という背理を「物語」の背後に隠さずストレートに提出しているところに、問題がある。

 チャペックが悩む科学技術、資本主義、民族主義はもはや一党一派のイデオロギーでも悪でもなく、因業なわれわれ全体の「それがあらねば生存できない悪」であることがはっきりしてきた。人類には「滅亡までの永久運動」としてのグローバル資本主義しかありえないことがはっきりしてきた。国家はグローバル資本を保護する基地ではなくなり、逆に、グローバル資本に見放されたら民族も国家も世界から追放されてしまうことがはっきりしてきた。
 トヨタでもソニーでも、GMでもゼネラルフーズでも、ノキアでもシーメンスでも、彼らは多国籍企業なのではない。グローバル企業は無国籍企業なのである。設計も製造も販売も、彼らはその活動の場を一定期間ある国に置くのは、その国にいた方がコストが低いから、ただそれだけの理由である。中国での人件費が上昇すれば、生産拠点はベトナムに、カンボジアに、ミャンマーにすぐに移転される。原発の停止で日本の電気代が高くなれば、日本経団連は工場の海外移転を仄めかして政府を恫喝する。しかしこのグローバル企業が「悪」であるのではない。トヨタソニー、GM、ゼネラルフーズなどがそうしなければ、彼らの競争企業が出し抜くだけなのだ。そしてトヨタソニー、GM、ゼネラルフーズの従業員の生活が脅かされ、多くの失業者を出すだけなのだ。日本を含めた先進国の「帝国主義」や「国益主義」といった政治的「外皮」は、政治理念が経済構造をリードすると信じられていたロマンチックな時代の「幻の敵」だったのである。

 80年前のチャペックに今の時代を予言すべきだ、というのは無茶な話である。しかし、「科学技術」や「帝国主義」や「民族主義」という単語を、作家自身の言葉として出してしまえば、それは「物語」ではなく寿命の短い政治小説になってしまう、というのは無理難題ではあるまい。