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砂田利一・長岡亮介・野家啓一 『数学者の哲学・哲学者の数学』(東京図書)1/2

 砂田氏は数学者、長岡氏は数学史専攻、野家氏は哲学者。世の中を少しだけむずかしく考える人には魅力的なタイトルの本だ。「まえがき」で長岡氏がこの本が一般人向けに出した趣旨を端的に書いている。それはこの本を、「世の中、経験こそすべて」とか「考えは人それぞれ」とかいう世知にたけた老人たちをやっつけるヒントにしてほしい、ということだ。
 まえがき(p4)
 ソクラテスとかカントの名前や、観念論、唯物論という哲学の術語は覚えていても、「人間は生まれてからいろいろなことを経験して学んでいくのだから、何事もやってみなければ分からない。経験することがいちばん大事である」という素朴経験論や、「人間それぞれに考え方があるのだから、自分の考え方を人に押し付けるのはよくない」といった素朴相対主義の主張に反駁できる人はやはり少ないのではないでしょうか。

 哲学も数学も基本原理は「論理」だ。日本人が一番苦手とする「理屈」だ。これが正確でなくては、街のおばさんのおしゃべりはともかく、社会現象のほとんどは理解できない。哲学者の野家氏が「あとがき」でこのことについて触れ、もともとは一つのものだった哲学と数学の再架橋を図るのが本書の目的であるとしている。 
 あとがき
 今でこそ数学と哲学は、かけ離れた分野と思われていますが、古代ギリシアではごく近しい関係にある学問でした。三平方の定理で有名なピタゴラスは一面で宗教的な神秘主義者でしたが、他面ではこの世界の根本的なあり方を「万物は数である」と喝破した数学的合理主義者でもありました。要するに、森羅万象は「数の比(ロゴス)」によって書き表されるということにほかなりません。またプラトンの学校には「哲学的なイデアの認識には、幾何学の理論的学習こそ格好の入り口である」という意味の看板が掲げられていました。
 このような数学と哲学の蜜月関係は、いろいろと紆余曲折はあったものの、20世紀初頭まで続いてきました。ところが抽象数学の飛躍的発展とともに、高度な数学理論は次第に哲学者の理解を超えるものとなり、現在では両者のあいだの溝は埋めることができないほど深まっています。もちろん哲学には「数学の哲学」と呼ばれる分野が存在しますが、これはゲーデルの「不完全性定理」をはじめとする数学基礎論の領域に接点を持つにすぎません。
 ただし数学的対象の存在や数学的真理の認識といった問題になれば、これはただちに存在論や認識論など哲学の領域と直結します。本書は、そのような数学と哲学のわずかな接点を手がかりに、歴史的考察を媒介にしながら、かけ離れているかに見える数学と哲学との架橋を試みたものです。

  無限への接近
 p50
 野家 中世以前と近世以降の世界観には大きなギャップがありますね。15世紀のニコラス・クザーヌスはその過渡期にあるような人で、直線を半径無限大の円の円周ととらえたりしています。ただ彼は神父でしたから、当然、無限という概念をある意味で神と同一視しています。神は無限の能力や無限の知識を持っているわけで、神が持っている無限性をどう表象するかということで、半径無限大の円だとか色んな概念を駆使したわけです。ただし、宇宙はあくまで「無限界」あるいは「無限定」であり、クザーヌスにとって神こそは有限と隔絶した絶対的無限でした。
 砂田 数学者も、感じをつかんでもらうためと、理論の整合性を強調するため、「直線は半径無限大の円、平面は半径無限大の球面である」と言うことがありますね。

 時空というモデル
 p83−5
 砂田 アインシュタインの時空でさえ、確かに座標を入れるわけですから、人間が観測するということになります。おおもとに座標と無関係に、アフィン時空、ミンコフスキー時空っていう言葉で表現される数学的なモデルがあって、そこに座標を入れたとたんに、時空という観測できる世界ができ上がってしまうわけです。この、「座標を入れる」まえに、あたかも何か人間を超越し、観測を超越したものが在るというのが数学のモデルの一つの考え方です。それはもう、感覚も何も関係ない。ただそれでうまく説明できているということだけが、数学モデルの存在理由なんですよ。
 野家 その数学モデルというものに、何らかのフィクションは入っていないのですか? 観測ないし実証できない要素という意味ですが。
 砂田 ある意味ではフィクションかもしれませんが、ただ数学的には整合的であるということです。言葉としてはほんとに何の座標もない。アフィン空間という言葉だけですね。ただし四次元の空間だけれども、そこにある構造を入れると、一つはミンコフスキー時空――アインシュタインの特殊相対論の時空――になるし、また別の構造を入れれば、ガリレイ時空になります。
 観測者は慣性系という座標を使って観測する。それもまったく数学の言葉で書かれる。一応それで解釈されて、全部うまく説明できてしまう。フィクションというにはあまりにも完全なので、数学者はやっぱり、それは「数学的な実在」と考えています
 野家 そのような考えは、数学者はリアルに感じているのですか?
 砂田 感じています。それは、ものすごくリアルです。頭の中にも、これは絶対的に何かそういうものが在ります。その説明には特殊相対論やガリレオの相対性原理でも十分です。さらに、一般相対論もローレンツ時空と呼ばれるもので全部が説明できてしまう。説明できた以上、それは数学者にとっては、ものすごく実体感のあるものになってしまうわけです。
 ただ実体っていう意味は、やはり哲学者の言う実体とは意味が違うのかもしれない。プラトン的な素朴な実在という感じなのかもしれません。