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内田 樹『街場の読書論』(太田出版)1/2

 p31
 難波江和英『恋するJポップ』 
 ライトなタイトルとは裏腹に、奥行きの深い論考である。とくに「Jポップの歌詞には自と対峙し続ける他者が存在しない」という指摘は鋭い。
 Jポップでは、コミュニケーションも自由も未来も、すべて「欠如の感覚」で歌われる。本来、「欠如の感覚」が詞になるべきものは、苛立ちや、渇望や、心もとなさといったものではなかろうか。すべてが「欠如の感覚」で歌われれば、「私」は孤独のままである。鼻であしらったはずの昭和の演歌から、Jポップはどこを向いて歩いて来たのだろう。難波江さんの本は、Jポップの歌詞の構造的な貧しさを解析しながら丁寧に取り出してゆく。

 p240
 拙書『若者よ、マルクスを読もう 韓国語版序文』
 私たちの時代以前、マルクスへ人を向かわせる最大の動機は 「貧しい人たち、飢えている人たち、収奪されている人たち、社会的不正に耐えている人たち」に対する私たちの「疚しさ」でした。でもそういう「疚しさ」の対象は1970年代中ごろを最後に、私たちの視野から消えてしまいました。
 最後に日本人に「疚しさ」を感じさせたのは、ベトナム戦争のときにナパーム弾で焼かれていたベトナムの農民たちでした。私たちはそれをニュースの映像でみて、べトナム戦争の後方支援基地として彼らの虐殺に関節的に加担し、戦争特需を享受している日本人であることを恥じたのです。
 でも、75年にベトナム戦争が終わったあと、日本人は「疚しさ」を感じる相手を失ってしまいました。そして、最初のうちは遠慮がちに、やがて大声で「自分たちはこんな贅沢をしている、こんなに気分のいい生活をしている」と自慢げに言い立てるようになりました。
 そんな社会では、誰もマルクスを読みません。そうやって日本人はマルクスを読む習慣を失い、まったく違う境遇にある人びとへの眼差しという、成熟のための必須の階梯の一段を失いました。それから30年たち、日本人は恥ずかしいほど未熟な国民になりました。
 マルクスを読み、マルクスの教えを実践しようとすることは、近現代の日本に限っていえば、「子供が大人になる」イニシエーションとして、もっとも成功したモデルのひとつでした。同じ提案が韓国の若者たちについても適切であるかどうか、それは分かりません。でも、韓国でも、中国でも、台湾やベトナムインドネシアでも、事情は日本とそれほど変わらないのではないか、とも思います。