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養老孟司 『からだの見方』(ちくま文庫)

 医学における「知」
 p106−7
 痴呆症が問題になっているのは、世の中が面倒になって、ボケると他人の迷惑になるからである。特に、対人関係がどうしようもなくなる。家族や近しい人たちは健康なときの印象があるから、病人を病人として扱えないことが多い。人が違ってしまったことをなかなか理解しない。
 精神障害の場合も同じである。だから、たとえば必要な冷たさが不足する。痴呆や精神障害の人に必要以上に親切にすると、彼らはその親切を「当然」と思い、次回にはそれ以上のものを要求することがある。結果、親切にした側はこりごりして、後で冷たくなりすぎる。
 ボケの問題を延長すると、一方には教育、落ちこぼれ、精神障害の問題が表れ、他方には脳死安楽死の問題が表れる。そしてその背景には、はるかに面倒な問題がある。たとえば、他人に不信を持つのが当然の世界で、安楽死がうまく機能するはずがない。こういうものは、うまくいくところでは、自然に実行されている。わざわざ頼む必要もないし、頼まれる必要もない。
 人間は、不信くらい結局は高くつくものはないことを、なかなか学ばない。戦争をみればよく分かる。その意味では医学もまた、信と不信の間をいつも揺れ動いている。

 タバコは自動車よりも肺に悪いか
 p240−2
 禁煙した人では胃潰瘍の発生率が普通の人より高い。そういう趣旨の論文を見た覚えがある。これは、「タバコがストレス解消になる」というのと同義である。三段論法にするとこうなる。胃潰瘍はストレス病の典型である。タバコはある程度ストレスを解消する。ゆえに、タバコは胃潰瘍の発生率を下げるはずだ。逆に言うと、タバコを止めるとストレスが増す。ゆえに胃潰瘍の発生率が増す、そういう理屈になる。
 タバコが問題になるのは、肺ガンや循環器疾患と関係するという疫学のデータがあるからである。これを「肺ガンの原因はタバコだ」と、肺がんの原因を世界ではじめて確定したかのように表現する人がいる。この人たちはどこかの回し者かもしれない。「関係がある」ことと「原因である」ことが同じでないことは、初等幾何よりも易しい論理の問題だからだ。
 タバコを完全に禁止すれば、つぎに肺がんの原因に登場すのは、ほとんどあらゆる工業製品だろう。いちばん問題にされるのは、産業界ピラミッドの頂点に立つ自動車だろう。自動車のどの部品ひとつをとってみても、身体にいいものを使っているとは聞いたことがない。だが、自動車には皆がお世話になるから、黙っていて言わない。人は、その程度には身勝手なものである。
 
 身体機構と認識機構を統一的に説明するロベルト・カスパーの進化論考
 p139-40
 木から落ちるリンゴを見て、ニュートン万有引力の法則を発見したという。では、そのリンゴは、いかにして木の上に生じるようになったのか。それがつまり進化である、というのがカスパーの『リンゴはなぜ木の上になるか』という本である。
 カスパーは、たいへん印象的なことに、アッシジの聖フランシスを評価している。彼の、すべての命あるものへの限りない思いやりは、われわれ仏教徒の国の人にも通じるところがある。われわれにとって、動物から人への移行はきわめて連続的だが、ヨーロッパの人がそう考えるためには、自分自身も含めて、さまざまな論理的、宗教的説得が必要であるらしい。
 進化論争には長い歴史がある。カスパーの立場はいわゆるネオ・ダーウィニズムである。ネオ・ダーウィニズムの、自然選択説と形態形成を折り合わせる論理は一般には晦渋だが、著者はこれを、遺伝的に固定された、つまり簡単には破壊されない構造単位が、階層的に組み立てられるとして理解しようとする。それによって、発生時の祖先形の反復などを説明する。このような考察が、つぎに遺伝子における階層秩序の解明に向かうことはあきらかである。
 同時に、ここで自然選択説を補強するのは、(コンラート・ローレンツの)進化論的認識論である。身体構造が有効か無効かは環境によって判定される。それによって、身体の進化が生じる。それと同じように、あらゆる認識は、その成否を経験によって判定され、選択される。つまり認識は経験によって修正され、次第に高次の認識にいたる・・・・・。
 この型の進化論は、当分のあいだ、説得力を持つはずである。身体機構と認識機構を統一的に説明するからである。