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養老孟司 『からだを読む』(ちくま新書)

 解剖学者・養老孟司が専門家として書いた、口から肛門までの消化管についての「人体構成解説書」。百科全書の「消化管篇」としてだけ読んでも面白いし、楽しいし、身内に癌になった人でもいれば、綜合内科医的な視野の広い知識も得られる。

 解剖学では、ヒトの死体を解剖する。そもそもヒトは、なぜこんなへんなことを始めたのか。解剖をすれば病気の原因を知ることができるからだ、と思う人があるかもしれない。残念ながら、歴史はその考えを反証する。
 病気の原因を知るために行う病理解剖が一般化したのは、19世紀になってからのことである。ミシェル・フーコーによれば、そもそも病気と死が因果として結びついたのが19世紀である。それ以前の人間にとって、ヒトの死は病気と必然的に結びつくわけではなかった。
 飢え、貧困、戦争、事故、刑死、あるいは病気ではあっても悪魔の仕業としか思えない黒死病(ペスト)の大流行。・・・・・・死はたんなる病気の帰結というよりもっと不思議で複雑なものと19世紀以前の人が考えたとしても、ちっともおかしくはないだろう。
 他方、人体の解剖は、14世紀から北イタリアですでに行われていた。有名なダヴィンチもやっていた。これは別に病気の原因を調べるものではなかった。正常な人体の構成を彼らは問題として探求していた。
 この人たちの具体的問題意識はどのあたりにあったのか。それは「言語の探求」である。宗教の緊縛から少しずつ自由になりつつあったルネサンス時代の人たちは、それまでの「神」に代わって「言葉」によって世界を埋め尽くそうとした。神にしろ言葉にしろ、世界を埋め尽くすものに対する西洋人独特の熱心さは、ほとんど偏執的としか言いようのないものである。
 そしてある日突然誰かが気づいた。「からだの内部が、まだ言葉で埋め尽くされていないのではないか。」・・・・・、ここで神が支配する大宇宙に対して、人間が直接手を触れてもいい小宇宙、つまり「人体」が出現したのである。
 言語は本来一体であった世界を、分割してしまう。では人の身体を言語で表現しようとしたら、とくにその内部を言語化しようとしたら、どうなるのか。 それはもう、解剖しかない。ところが生きている人を分割などしたら、もちろん死んでしまう。だからこそ、身体の内部を言葉で埋め尽くそうとしたとき、相手は死人しかなかったのである。(p106)彼らの200年後、デカルトの時代になっても、ヒトの根本は魂にあったから、人体の構造は、死体の解剖で、すなわちメスというペンによって十分記述できると考えられていた。
 西欧にだけ自然科学が生じたのは、おそらく偶然ではない。なぜなら彼らは文字としてアルファベットを用いたからである。そこには「あるもの」、意味を持った全体<人体>が意味を持たない構成要素<アルファベットからなる言葉>に分解できるという、暗黙の了解があった。アルファベットを用いる限り、その思い込みは当然だった。ヒトは世界を言葉で埋め尽くすことができる、その世界は、わずか二○あまりの基本要素、すなわちアルファベットで構成されているのだ、と。(p110)

 (話は変わるが)タンパク質は、腸内でアミノ酸にまで分解されてやっと吸収される。小腸上皮細胞の細胞膜は、アミノ酸程度の小さな分子しか透過できないようになっているからである。
 ところがものごとにはしばしば例外がある。例えば乳児が母乳を飲むと健康にいいということがある。細菌やウィルスに対する抗体が母乳を介して乳児に伝わるからである。しかし抗体はグロブリンというタンパク質である。それならグロブリンが乳児の腸で吸収されるためにはアミノ酸にまで分解されなくてはならない。でも、分解されたら抗体ではなくなってしまうのではないか。
 例外というのは、乳児の上皮細胞だけはものを「まとめて食う」性質を持っているのである。この場合は、母乳が小腸にやってくると、腸の上皮細胞の一部が「自動的に」落ち込んで袋になり、その袋ごと毛細血管の中に取り込まれるということがおきるのである。
 さらに、これとは違って、身体によくない高分子吸収の例外もたくさん起きている。そもそも食品でアレルギーを起こすにはアレルゲンという高分子が吸収されなくてはならないはずである。学校などでの深刻なアレルギー事故を考えると、これまでの教科書的な説明ではとうてい不十分だと分かる。