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内田 樹・平川克己 『東京ファイティングキッズ・リターン』(文春文庫)1/2

 平川克己は内田樹の若いときからの友人。1977年に内田と一緒に翻訳会社を設立し、代表を務めた。いまはラジオカフェという会社をやりながら、経済的側面から見た文明論のような本を書いている。内田や小田嶋隆との共著も多い。本書もその一冊。
 歴史事実の生起を因果律で考える人間は<陰謀史観>に陥りやすい
 p87-91 (内田樹
 1789年、フランス革命で特権を剥奪された貴族や僧侶の一部はイギリスに亡命したのだが、彼らはロンドンのサロンに集まっては 「どうしてあんなことが起きたんだ?」 という議論に日々を費やすばかりだった。フランス革命ではあれよあれよという間にブルボン王朝崩壊という大事件になったのだが、その理由が彼らにはまるで分からなかった。
 彼らのように、線形方程式の考え方をする、つまり一連のことがらは因果律に従って起きるものであると考える人間は 「出力としての大事件」 には 「入力としての大原因」 が一対一で対応しているにちがいないと推論する。
 ブルボン王朝は巨大な権力システムだから、それを瓦解させるものも巨大な権力システムでなければならない。しかしそんなものはフランス国内のどこを見渡しても存在しない。ジャコバン派は革命後一時的に権力を掌握したけれど、その後すぐに転覆されたように、政治基盤はきわめて脆弱なものだった。となると、そこから導き出される結論は論理的には一つしかないことになる。
 それは、革命を起こしたのは、王政と同程度の組織力を有する 「不可視の政治組織である」 という結論である。「ジャコバンプロテスタントフリーメイソン聖堂騎士団も、すべてはこの「不可視の政治組織」がコントロールしている・・・・そういう「物語を作る」ことで彼らはストンと納得した。そして以後、この全世界のすべての個別的政治活動を<裏>で統御している「不可視の政治組織」について、ありとあらゆる流言飛語が飛び交うようになった。
 この発想法は<ユダヤ人の世界政府>から始まって、007の仇敵<スペクター>、レーガン大統領の<悪の帝国>、ジョージ・ブッシュの<ならず者国家>と連綿と語り継がれて今日に至っている。
 オレがこんなに必死に働いているのに、ちっとも楽しくならない・・・・という事実から出発して、 「ということは誰かがオレの労働を収奪し、オレの苦しみから快楽を得ていることになる」 と古典的な線形方程式の考え方をする人間は、今でも決して少なくない。 量子力学以後、私たちはそのモデルがもう使えないことを、理論的にも実験的にも熟知しているはずなのに。
 20世紀最後半に普及した 「複雑系」 という概念は、私たちの現実世界の出来事はほとんどが複雑系の事象であることを証明してくれた。「被害者」の対極には「加害者」が存在するはずだというのはある種の宗教的信憑に過ぎないというとを、すくなくとも大学を出た人たちは知っていなくてはならないはずである。

 米国企業の日本人支社長選定のワンパターン
 p179 (平川克己)
 アメリカに本社のある企業が日本に進出するとき、彼らが選ぶ日本人社長はみんな似ている。僕・平川はこのあたりの事情にわりと詳しいのだが、米国企業が選ぶ日本人社長は決まって英語がうまくて、プレゼンテーションの巧みな人間です。MBAとか東大、東工大といった高学歴がこれに加われば、アメリカ人経営者はその人間に日本支社代表を任せてよいと思っている。
 日本で長くベンチャー企業をやっている僕から見ると、この二つの能力は営業部長とかマーケティング部長には必須の能力かもしれないが、これで日本の社長が務まるとはとても思えない。社長に必須の能力とはローカルスタッフを雇い入れ、顧客と信頼関係を築き、ビジネス展開を持続的なものにすることである。ここのところをアメリカ人経営者は意図的と思えるほどあっさりと見落としてしまっている。
 これはアメリカにとっても日本にとっても不幸なことだ。「郷に入れば郷に従え」ということわざ、Do as the Romans do. なんてことを言えるアメリカ人も少しはいるのだろうが、イラクアフガニスタンに侵入してアメリカの民主主義を植えつけようとしているのを見ていると、アメリカ人が「文化の多様性」を本心から学ぶのは今後もありえないのではなかろうか。
 アメリカはたしかに多様性の国だが、それは「アメリカ&その他いろいろ」の範囲の多様性にすぎない。その他いろいろが主流になるのは許さない。強者になるのは許さない。なぜなら自分こそが強者であると言う強迫観念から抜け出すのは、簡単ではないから。だって彼らは、強者であること以外のふるまい方を経験していないのだから。