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内田 樹・平川克己 『東京ファイティングキッズ・リターン』(文春文庫)2/2

 日本人が英<会話>を苦手とする構造的理由
 p186-92(内田樹
 太平洋戦争で完膚なきまでに打ちのめされた日本人の中には、生きる目的をほとんど見失っていた人たちも多かった。 そこを、「平和憲法」という世界でもっとも倫理性の高い基本法を国民に与え示すことで、アメリカは当時の日本人のいちばん深いところで必要だった 「自分たちの存在理由」 を担保してくれた。当時、日本人の倫理的正しさはアメリカの「政治的正しさ」が保証するという構造になっていた。
 戦後ずっと、ベトナム戦争が泥沼になるまで、アメリカがキューバやフィリピンを属国化したことも、カリフォルニアを奪い取ったことも、アラモ砦の戦いがテキサス併合の策略だったことも、武力によるハワイ併合のことも、日系移民の強制収容所のひどい内容も、私たちは中学・高校の日本史で教えられなかった。
 しかしそれはある意味当たり前のことだった。国がまさに滅びかけたとき、アメリカは世界の中での 「日本の存在理由」 をはっきり示してくれた恩人だったからだ。はっきり言って、このときアメリカは日本にとって、余程のことでない限り提案を呑まなければならない宗主国になっていたのである。

 ところで、インドでも南米でもアフリカでもフィリピンでも、宗主国は植民地の人間に語学教育を施す。コミュニケーションができないと統治全般に不便だから。
 そのときの語学教育の中心は必ず会話になる。文法や修辞学はできるだけ教えようとしない。理由は簡単である。会話だけでなく 「読み書き」 をきちんと教えると、植民地の人間の中から宗主国人よりもリテラシーの高い人間が出現してしまうからだ。現地人の秀才の中から宗主国の教師を地的に凌駕してしまうものが出てきかねない。そのような事態は、宗主国として決してあってはならない。だから、植民地における語学教育は必ず会話中心になる。
 一般的に語学教育においては、宗主国から来た教師の文法の誤りを指摘できる生徒はすぐに現れるが、教師の発音の誤りを指摘できる生徒の出現は、原理的にありえまない。発音に関しては、母国語話者には「間違い」がないのが言語なのだから。だから宗主国教師は生徒の発音のうちにだけ、無限の誤りを威厳を持って指摘することができる。
 日本の英語教育は、戦前までは旧制高校での語学教育に見られるように、かなり高水準のものだった。夏目漱石の英語力は驚嘆すべきもので、漱石は十代途中で漢学を捨てて英語に転じるのだが、そのあとわずか数年で『方丈記』を英訳している。もちろん当時の東大の英語教師にはたくさんのお雇い外国人がいたから、漱石は英会話能力も高かったはずだが、それは別に日常の用を弁ずるに足りればいいことだった。
 この「教養的に劣位にあるお雇い外国人には用がない」という「傲慢さ」が、戦前までの日本のエリートの外国語習得には伏流していたように思われる。
 会話中心の英語教育はこの伝統を完全に反転させてしまった。ひねくれた私には、それは 「教養的に劣位にあるアメリカの有象無象諸君」 に知的威信を担保するための教育制度だったように思われる。語学教育の方法論など、戦後の為政者にとっては 「国家にとって余程のこと」 であったはずはなく、彼らは「アメリカに好きにやらせておけばいい」程度にしか考えないものだった。

 「野暮」な中田英寿
 p241−5 (内田・平川)
 内田  このあいだ江弘毅さんの『「街的」ということ』を読んでいて、文体もテーマも全然違うのだけれど、ふと九鬼周造の『「いき」の構造』を連想したんです。九鬼周造のすごいところは「粋には本質がない」って、はっきり言い切っているんですね。
 平川  粋は野暮じゃないってことでしょう?
 内田  ていうか、粋とは何かを細大漏らさず解説しきってしまうことが「野暮」だってことです。「粋」とは現実そのもののうちにホントに儚い、移ろいやすい形象としてしか存在しないものだ。それをカタログ化したり、「あなたも一週間で粋になれます」というようなマニュアルを作ったりして、粋を一望俯瞰できるようにするという発想そのものが「野暮」そのものだと。
 平川  たとえばホリエモンが金で買えないものはないといった瞬間に、 「野暮だね」 って言えばいいんだ。新聞も、 「野暮なことを言っている若者」 と言えばよかったのを、「いかにも現代若者の本音だ」 と解説したから、ホリエモンはますます調子に乗っちゃった。 野暮の二枚重ねになってしまった。まあ新聞は野暮の骨頂みたいなもんだけど。
 内田  中田英寿は選手としては一流だったけど、あのブログの引退宣言にはゲンナリしたな。中田にもだけど、ああいうものを紙面に載せる日本のメディアの知性のなさにも。
 サッカー選手は思想家でもオピニオンリーダーでもなんでもないんだから、彼の人生観など「そうですか」って聞き流せばいい。人生観に奥行きがあったから一流のアスリートになったわけじゃないんだからね。
 平川  すぐれたアスリートは同時にすぐれた見識を持っているはずだという推論が、メディアの知性の間で成立するんだろう。とってもすばらしいサッカー選手だった、だけでなぜだめなんだろう。
 内田  中田のまわりに 「そういうのはちょいと野暮だぜ」 というアドバイスをする人が一人もいなかったというのが気の毒だった、とは言える。