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カズオ・イシグロ 『浮世の画家』(ハヤカワepi文庫)

 語り手でもある主人公・小野益次は、いまは隠退しているが、1945年までは日本中で名の知らない人はいなかった大画家。物語はその小野益次が、戦争が終わってすぐ、長崎の高級住宅地にある故・杉村明の大邸宅を買い取るところから始まる。杉村明というのは、「戦前からこの市に住んでいる人々に聞いてみればよく分かる。だれもがはっきりと、その杉村さんなら三十年もの間この市でだれよりも尊敬されていた最高の実力者でしたよ、と教えてくれる(p10)」男だ。
 その杉村明について小野(=わたし)は何度も述懐している。たとえば197ページ。

 「杉村の住宅を買い取ったときの遺族の『あなただから安く売ってやる』と言わんばかりの高慢な態度はあまり故人への好感を誘うようなものではなかった。にもかかわらず、わたしはこのごろ、杉村がなしとげようとしていたことについて考える。そして、正直に言うと、この人物に対して一種の敬意さえ抱き始めている。だれであれ、並はずれた人間になろう、非凡の域に達しようとするものは、最後に挫折しても十分に尊敬に値する。だから杉村明は不幸な人間になって死んだのではない。杉村の大きな事業の失敗は、ありふれた凡人のみっともない失敗とは似ても似つかないものだったのだ。」
 この小説は全ページ、主人公・小野益次が自分の記憶をたどって書いているという体裁をとっている。娘や娘婿や昔の師匠や弟子が何人も登場し、それぞれ個性的に造形されているが、彼らの会話や行動を書いているのはすべて「わたし=小野益次」である。どのページを何度確認しても、それとわかる作家カズオ・イシグロの顔はどこにも顕れておらず、プロットは人物の会話という「現実の曖昧な輪郭」の重ねあわせだけで進行する。
 翻訳者も言っているように、主人公が自分の記憶だけで作る話は、作家が主人公の独善性を浮き上がらせるには最適の話法ではなかろうか。読者は主人公の考え方に沿ってしか世界を眺められないからだ。読者がその主人公の独善性に気づくのは、物語も後半になってからである。小野が超大物画家として無謀な戦争推進に「協力」していたこと、過酷な兵役を経験した弟子たちが次々に小野から離反していったこと、自分の経歴が娘の良縁の障害になっていたのかもしれないと悩むこと・・・・・こうしたことが明らかになるのは半分を過ぎたころからである。
 作中で小野(=わたし)は退廃的な美人画ばかり描いている師匠と決別する際、「先生、ぼくの良心は、ぼくがいつまでも<浮世の画家>でいることを許さないのです、(=戦時という現実を描かなければならないのです)」、と「真情」を訴えている。つまり小野は「きびしい現実」から逃避し、仄暗い美人画の世界に沈潜する師匠を「浮世の画家」ととらえ、自分こそはその浮世から抜け出すのだと宣言している。
 しかしそれは表に顕われた字面がそうであるだけだろう。カズオ・イシグロは、始終自分を正当化し続けなければ生きてゆけない個人そのものの弱さ、それを「浮世の画家」というタイトルの「浮世の」に込めたのだと思う。そうであればこそ、いろいろな転変が終わったエピローグに至っても「わたし」の処世の仕方が一向に変わらないことに説明がつく。つい十年前まで長崎市の有力な戦争協力者であった「わたし」は戦後復興が緒につき、若いサラリーマンが酒場で陽気に談笑するのを見て、「わが国は、過去にどんな過ちを犯したとしても、いまやあらゆる面でよりよい道を進む新たなチャンスを与えられていると思う(p306)」のである。
 カズオ・イシグロは、漱石のように、経済的に成功した人を口をきわめて批判したりしない。なにせ原題は<An Artist of the Floating World>なのだから。浮いている世界を罵っても波は自分に返ってくるばかりだからだ。