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ブレイクモア 『脳の学習力』(岩波現代文庫)

 めざましい進歩をとげつつある脳科学が、大人、子供、脳神経関係に障害を持つ人、持たない人を問わず、学習と教育にどのように関わることができるかを、脳のメカニズムの具体的な例をあげながら示した本である。「子育てと教育へのアドバイス」というサブタイトルどおり、学習はいかにして脳内で行われるのかという切実なテーマが、特定のイデオロギープロパガンダにぶれることなく、丁寧に誠実に解きほぐされている良書である。巻末には主要な専門用語の索引と用語解説も付されている。

 ほんとうに三歳では遅すぎる? 幼児教育論争
 p34
 1996年、ホワイトハウスで乳幼児期の発達に関する会議が開かれ、ヒラリー・クリントン大統領夫人が脳の発達に関する研究に言及した。
 「わたしたちは今、ヒトの脳がどのように発達するのか、そして子供たちが人格、共感、知性を発達させるために、環境から何を得なければならないかということについて、数年前よりもずっと多くのことを知ることができます」。彼女は、三歳までに寛容からの刺激を受けることが重要であることを示す証拠として、所期の脳の発達に環境が強く影響を及ぼすことを実証した「当時の」研究を引用した。そしてさらに「ゼロ歳から三歳までの経験によって、子供たちが平和な市民に育つか凶暴な市民に育つか、要職に就くか訓練の足りない労働者となるか、愛情深い親となるか無関心な親となるかが決まる可能性がある」とまで主張した。
 自らの知能の高さと育った環境の良さにゆるぎない自信を持つ、いかにもヒラリーらしい発言だ。自分が信じる「理念」に「科学的」な根拠があることを見出して、そこに向かって一本調子に突き進む姿は、精神年齢が成熟していない少年国家のファーストレディを完璧に映し出している。しかし20世紀最後半から現在に至る脳科学の進歩は、このヒラリーの「三歳児では遅すぎる」という幼児教育の必要性にはっきりと疑問を呈している。
 p203
 誕生直後から一歳くらいまで、前頭葉では皮質の神経細胞シナプスが増加し続ける。脳の多くの部位において、この時点でシナプス密度は最大になる。しかし、シナプス密度が高いことと脳が発達していることは、同じ意味ではない。シナプスがいくら多くても、近傍のシナプスとつながる軸索の信号伝達速度が遅ければ、脳が発達しているとは言えない。
 神経細胞は発達するにつれ、軸索がミエリンという絶縁膜で覆われるようになる。このミエリンが神経細胞内どうしの電気的インパルスの伝達速度を速くする。電気的インパルスの伝達速度が速くなってこそ脳が発達していると言える。
 一歳ころにシナプス密度がピークに達したあと、使われていない神経細胞は刈り込まれていき、使われている神経細胞は増強されていく。使われている神経細胞の軸索がミエリンで覆われ、インパルスの伝達速度が上がっていくのである。
 p289
 このように、最も人間らしい脳の領野といわれる前頭葉の発達はゆっくりしたものである。ゼロ歳から三歳までに出来あがってしまうというようなものではない。前頭葉の重要な機能である、サル的、類人猿的行動を抑制するメカニズムは、児童期から青年期を通じて発達を続けるもので、成年期初期まで完全には発達しない。(十分な大人になっても未発達の人がいくらもいる。)平和な市民に育ち、愛情深い親となるというような、抑制を必要とする能力、繊細な社会的エチケットや合理的な意思決定は、前頭葉の発達と並行して徐々にしか現われてこないのである。