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長谷川 宏 『日本精神史・上』(講談社)3/4

 第十三章 『枕草子』と『源氏物語』 平安朝文学の表現意識

 紫式部にとっては、貴公子の政治的行動も、異常な恋愛も、出家者の浄土希求も、
 明るくもあり暗くもある、自分の生きる「この世のなかでの出来事」である。

(以下は『源氏物語』についての記述のおもな部分を抜き出したもの)
 人の世の闇を見つめる紫式部のまなざしは、貴族社会の通念や価値観や美学をそのまま受け入れることができず、それらを突き抜けたところに人間の真実を探り当てようとする。若い頃わずか十二歳の将来の紫の上を未明の時刻に拉致したり、壮大な六条院に春夏秋冬の四つの区域を設営し、それぞれに美女を配するという源氏の奇矯な行動や異様なふるまいにも、そこには人間らしい愛欲の情が働いており、それゆえに苦悶と葛藤なしにはすまないことが読み進むにつれて次第に明らかになる。そして、相手となる女たちの、嫌厭を内に含んだ受容、受容に混じる疑念や後悔の念も巻を追って深まっていく。上流貴族といえども、また、上流貴族に愛されて一見幸せなように見える女たちといえども、その内面に錘鉛を下ろしてみれば、そこには苦渋・苦悶・悲哀・悲痛がうごめいている、と、そう考えるのが紫式部の人生観だった。
 恋する者たちの内面に目を据えると、社会的な位階秩序においては上下にかけ離れた源氏と玉蔓が、対等な恋の当事者として同じように恋の関係に引き込まれ、同じように苦しむように見える。源氏と夕顔・藤壺・紫の上、さらには柏木と女三宮、夕霧と雲井雁、の関係についても同じことが言える。恋を主題とする『源氏物語』が人間の普遍的なすがたを表現するところまで行けたのは、恋する男女が、その内面的な心情の面から捉えられることによって、たがいに対等な主体的存在として向き合うことができたからだ。

 貴族社会にあっては、男女の結びつきと世俗的な栄華とは切っても切れない関係にあるが、紫式部はその切っても切れない関係に恋愛の本質をみなかった。相手のその場その場の言動に突き動かされ、大きく、また微細に揺れ動く心情にこそ恋愛の本質があるととらえ、その揺れを人間的に価値あるものとして表現するのが紫式部の立場だった。
 恋する男女が向き合うとき、どちらかがどちらかを一方的に支配することはありえない。関係には不確定、不安定な要素が必ずつきまとい、『源氏物語』の中でのように、男女の一方が上流貴族であればそれが社会的不安定の要素ともなりかねないから、恋する主体はおのれの心情に誠実であればあるほど、深い悩みをかかえこむことになる。
 玉蔓との関係もそうだが、六条院の四つの町に住む四人との関係も、どれひとつとして心安まるものはない。気を許すといつ壊れるかわからないものばかりだ。栄耀栄華の政治生活の内側にある緊張と危機と悩みと苦しみに満ちた恋愛生活。それが紫式部のとらえた人の世のすがただった。
 が、この紫式部の世界観は仏教的な厭世観とは似て非なるものだ。人の世の暗さと重たさが彼女をして彼岸を希求させることはなく、暗く重いがゆえに紫式部はかえってこの世を探求し表現することに意欲をそそられた。彼女にとっては暗く重たいこの世こそ自らの生きる世であり、観察する世界であり、表現する世界だった。この世を断念しようとする出家者の意思や行動もこの世の出来事なのだった。紫部の現実認識はそのようにも冷徹なものであった。