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長谷川 宏 『日本精神史・上』(講談社)4/4

 第十七章 法然親鸞 万人救済の論理
 法然によってはじめて、
 日本仏教は「普通の人々とともに生きる普遍宗教」になることができた。

 (以下は法然についての記述のおもな部分を抜き出したもの)
 法然の生きた平安末から鎌倉初期の時代は、鴨長明の『方丈記』が語るように、末法の濁世がそのまま目の前に現実なってあらわれたような時代だった。戦乱・戦闘がところかまわず起き、多くの人々が傷つき、家を焼かれ、飢えにさいなまれ、病に倒れ、死んだ。民衆は前方に光を、安心を、希望を見出そうとするが、濁世にあってそれは容易ではなかった。
 六世紀に日本に伝えられた仏教は、世界宗教としての普遍性をそなえて国の民に接するというよりは、まずは豪族や国家権力と結びつき寺院自体が特権的存在として支配層の一翼を担うという面が大きかった。奈良時代の鎮護国家の思想は仏教と政治の結びつきの強さを端的に示すものだった。そういう状況を抜け出し、山修山学をもとに宗教的な自立をめざした最澄比叡山延暦寺も、最澄の死後、時代とともに政治と結びつきを強め、特権集団としておのれの存在を誇示するようになってきていた。
 そういう人々の思いに応えようとしたのが法然の「専修念仏」の思想だった。貧しく、愚かで、無知で、無戒の庶民こそ救われなければならないとする専修念仏の思想は、そのような既存宗教集団の特権性を突き破り、仏教を人々の日常世界に広げていこうとする試みにほかならなかった。地べたを這いずり回るような宗教活動だが、こめられた思想からすれば、まぎれもなく宗教の普遍性へと向かう日本で初めての試みだった。
 部族や民族を超えることが上部の枠を突破して世界宗教に至る道だとすれば、下層の大衆に近づくことは宗教集団の底部を踏み破って世界宗教に至ろうとする道だ。専修念仏の思想は、長く国家権力や上層階級と政治的に結びつき、みずから特権集団として社会に臨むことの多かった日本仏教の伝統を鋭く批判し、普通の人々とともに生きるところに仏教本来の普遍性をみいだすものだった。

 日本の仏教においてこの世とあの世、地獄と極楽が対立構造をなすものとして思い描かれるのは、そう古いことではなく、平安中期の頃からである。そういう社会状況を踏まえ、人々の極楽浄土への思いに明確な方向性を与えようとした書物天台宗の僧・源信の『往生要集』(985年)だった。『往生要集』は地獄と極楽のさまを、これでもか・これでもかというほど強烈な<イメージ>で描きだし、地獄の醜悪さと極楽の美しさ、快適さを映像的・嗅覚的・触覚的に、読者の脳裏に焼き付けようとするものだった。
 対して、法然親鸞の浄土思想はそのようなイメージを繰り広げようとはしないし、阿弥陀堂や仏像や聖衆来迎図といった美の造形に向かおうとはしない。その大きな理由として、六世紀に仏教が伝わって以来、仏寺・仏像に体現される<美のイメージ>が主として特権的な上層階級の享受するものであり、法然親鸞の相手とする庶民にとっては縁遠いものだったことがあげられる。
 そのとき、法然親鸞の力になったのはことばであり、論理であった。かれらはイメージによってではなく、ことばによって、論理によって、宗教の本質に迫ろうとした。汚辱に満ちた末世を生きる人々に救いはあるのか。あるとすれば、それはどんな形をとるのか。南都大寺の高踏的な理路の展開や、最澄空海という世界的思想家の研ぎ澄まされた教説からは、庶民に対して説得力ある救済の論理を紡ぎだすのは難しかった。その意味で法然選択本願念仏集』や親鸞教行信証』はそれまでの日本仏教を民衆のための普遍宗教に導いた初めての思索の書であり、「専修念仏」や「他力本願」や「悪人正機」の説は初めての行動哲学の思想だった。