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河野多恵子 『逆事(さかごと)』(新潮社)

 統語法をわざと無視するような、「段落として意味が読み取れればそれでいいのよ」と言っているような文章を書く人である。谷崎の衣鉢を継いだ大家であるし、これを書いたとき八十五歳を過ぎていたのだから、だいいち今年亡くなった人なのだから、細かいことは言わなくてもいいのだが・・・。

 p166に、三島由紀夫の死に方についての興味深い指摘があった。
 三島由紀夫があのような亡くなり方をした時、死亡時刻が午後零時十五分過ぎと知るなり、志賀直哉の短編私小説『母の死と新しい母』のなかにあった引き潮のことを思い出していた。そして平素は見る習慣のない潮の満干の時刻の載っている小さなコーナーを探した。三島は、志賀が作品の中で言うような引き潮の時刻ではなく、満ち潮――それも満ち潮に変わったばかりの時刻ではなく、絶頂へさしてどんどん進んでいっている時刻で亡くなっているのである。
 私は三島由紀夫という人を「択びすぎた作家」だと思っている。それも万事に頭で択びすぎた作家であったようである。偶然や成り行きの妙味は知らず、好き嫌いもまた情や感覚ではなく頭で択んだものだったように思われる。結果としては同じことながら、三島が男性であることも、頭で両性をあれこれと比較してみて、択んだ性のように私には思えるくらいだった。そうして、択ぶことへの彼の熱心さには、人目への過度の期待が感じられる。そうして彼の死もまた択んだ死であった。
 作家言うように、三島は、好き嫌いも、自身の性までも「頭で択」ぼうとした天才だったが、ただひとつ、年代的には当然ながら、彼に欠けている知識があった。発話を含む人間の<すべての>行為において、意識が統御できない脳内信号がいわゆる「自由意志」に先行することを、三島の死の十数年後にアメリカの生理学者ベンジャミン・リベットの実験が証明してしまったのである。自分の行為は自分の「自由意志」によって「頭で選択したものである」ということを信じている作家は、いまや三島が生きていたころのようには多数派ではない。