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丸山真男 『福沢における「実学」の転回』(岩波・著作集第三巻)

 p117−9
 福沢諭吉が「親の仇」のように嫌った江戸以来のアンシャン・レジームの学問では、倫理学が「学中の学」だった。ただそれは自然認識が欠如もしくは希薄だったということではなかった。そうではなくて、自然が倫理価値と離れがたく結びついており、自然現象の中に絶えず倫理的な価値判断が持ち込まれるという点に問題があった。自然は、幕府時代の学問においては、人間に対する外部的なものではなくして、むしろ本質的に精神的なものと捉えられていたのである。
 林羅山においても、貝原益軒においても、上下貴賤の差別による社会的秩序の基礎づけは、全く同じく自然界からのアナロジーによってなされた。天は高く地は低いことが天地の秩序をなしている。故に、人間もこれと同じく上下貴賤の関係で結ばれるときのみ正しい秩序が保たれる、というきわめて素朴な(古代周王のと言ってもいい)自然観からのアナロジーである。
 この時代においては、宇宙的秩序を成立させる天理(天道)が人間性に内在して本然の性となり、社会秩序に対象化されたとき、それは君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の「倫」となる。つまり自然的事物のなかに、「内在する根源的倫理性」を認識することによって、人間関係を律する倫理(仁義礼智信)の先天的妥当性を確認することが、そこでの自然探求の目的であり、またそれ以外であってはならないのだった。
 江戸以来の倫理学においては、自然法則と人間的規範は、なにか本来的に一なるものの分化にほかならなかった。この「一なるもの」がすなわち「道」と呼ばれたものだった。自然に行われる「道」(天道)と人間関係を支配する「道」(人道)との同一性こそ江戸時代からの固定的社会関係の支柱だった。この先天的・固定的社会環境への依存が「価値」であり、それからの離脱がすなわち反価値である。そうであればこそ、そうした社会関係の下に生み出される学問は必然的に「道」学たらざるをえなかった。
 p121−2
 だから福沢が「物ありてのちに倫あるなり。倫ありてのちに物を生ずるにあらず。臆断によってまず物の倫を説き、その倫によって物理を害するなかれ」(文明論の概略)と断言したとき、その発言はまさに時代を画する意義を持っていた。
 彼のこの言葉は「物理」すなわち自然界と、人間界の「倫理」にはアナロジーが成り立たないことを宣言するものだった。社会からの個人の独立は社会秩序の先天性を払拭しなければ成り立つものではなく、ヨーロッパ文明は「社会秩序の先天性」なるものが臆断であることを見抜いた時に始まったことを、福沢ほどはっきりと説いた人はいなかった。
 p124−5
 福沢の「実学」は、この「人倫」とのアナロジーをまったく離れ、ヨーロッパ近代精神によってあらゆる「内在的価値」を奪われた、ニュートン以後のむき出しの「自然」追究の学の意味に解されなければならない。福沢においてはわれわれの生活は先天的・客観的な環境ではない。「人の精神の発達するは、際限あるべからず。造化の仕掛けには定則あらざるはなし。無限の精神をもって定則の理をきわめ、天地の事物ことごとくを人の精神のうちに網羅して洩らすものなきにいたるべき(文明論の概略)」である。
 現代のわれわれから見れば、19世紀後半からの機械的生命論が陥る論理の泥沼とニヒリズムを知る由もなかった福沢のこの「自然学」追究志向は、微笑ましいほど素朴な啓蒙論にすぎない。が、それでも個人の精神をして、「天が先験的に定めた位階」から脱出して主体的な独立性を自覚させるための契機を日本の人々に与えたことは間違いない。福沢は、儒学の説く「物の理」とヨーロッパ自然学の「物理」の間のアナロジーを、当時の姿勢の読書人にも分かりやすい論理で否定することで、わが国の思想家たちの論理スキームにコペルニクス的転回をもたらした。