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丸山真男 『福沢諭吉の哲学』(岩波・著作集第三巻)

 p129
 福沢はまがうかたなき啓蒙の子だった。合理主義に共通する、科学と理性の進歩に対する信仰を持っていた。しかし他方、福沢は、「人における情の力は至極強大にして、理の働きを自由ならしめざる場合の多い」ことにもよく通じており、「されば、かかる人情の世界にいながらただ数理だけをもって世を渡らんとするはいかにも殺風景である」(いずれも福沢全集十 通俗道徳論)というような趣旨のことをしばしば述べている。
 こういう現実の非合理性の強力な支配に面して、福沢の実際の処理の仕方は、「少しずつにても人情に数理を調合して、社会全体の進歩を待つのほかあるべからず」(同上)という漸進主義であった。これは啓蒙的合理主義の立場からすればはなはだ不徹底のそしりを免れ難く、福沢哲学の曖昧さや楽観主義を批判する声は、当時から現在までそれこそ快挙にいとまがない。
 p183
 しかし、「進歩とは事物の煩雑化にともなう価値の多面的分化である」――福沢の言論・教育を通じての実践的活動は、つねにこの意味における進歩観によって方向づけられていた。多くの明治初期の合理主義者が、すこし後になるとわが国古来の醇風美俗をたたえ、「都会文明」や「物質文明」の弊害を説く道学者に舞い戻った際にあって、福沢は「人間世界は人情の世界にて道理の世界に非ず。そのありさまを評すれば七分の情に三分の理を加味したる調合物とでも名づくほどのもの(全集十一 政略)」というまでに、非合理的現実に対する豊かな目を持っていた。
 最晩年においてさえ福沢は、田舎の固定社会の素朴な正直を称揚する俗論を断固として退けた。「文明世界の経営は田舎漢に依頼すべからず。小児に任すべからず。口先ばかりの徳教論者ならぬ我らは、人情の素朴無邪気など消極の徳教を言わず。ただ真一文字に人の知識を推進し、その知を極めて、人々の醜き運動を制せんと欲する(福翁夜話)」と述べている。社会関係の複雑化の過程をどこまでも肯定し続けた福沢と、道学者に舞い戻った明治初期の合理主義者の間には、千里の径庭があるといえる。
 p185−6
 啓蒙の子・福沢にとって、徳川時代250年の平和は、社会的凝固と停滞を代償として得られたものであり、明治以後の国民にとっては負の側面が多いものだった。しかし福沢は冷静に、この徳川時代すら支那専制帝国に比べてはなお自由と進歩への素地があったことを、積極的に認めている。支那専制帝国では皇帝が精神的権威と政治的権力を独占しているのに対し、日本においては、政治的に無力な皇室と精神的権威には疑問がのこる幕府が対峙牽制しあうという、いわば「権威と権力の弁証法」的な制度が根付いていたからである。
 福沢は、この、一方だけに専制を許さない政治システムが国家の気風として存在したことに、日本が東洋で最も早く近代化への道を踏み出し、支那ような国際的運命を免れた最も内奥の理由を見出したのだった。