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米本昌平 『バイオエピステモロジー』(書籍工房早山)1/4

 書名の「バイオエピステモロジー」は「認識論としての生命論」とでも言えばいいのだろうか。著者は『遺伝管理社会』、『バイオポリティクス』などのなかで、「生臭い現実政治・学問社会の中での生命関連科学」といったテーマを、歯に衣着せない言葉づかいで分析されてきた方である。今年10月の毎日新聞養老孟司の書評があった。こういうことが書かれていた。
 「生物と無生物の違いは、ほとんどだれでも知っている。では訊くが、どこが違うのか。生物には無生物にはない、なにか根本的な性質がある・・・と素直にそう思った人は現代の生物学ではバッテンが付く。生物は細胞からできている。その細胞は分子からできていて、その分子は物理化学的にふるまう。だからそれを全部完全に調べ上げれば、細胞は理解できる――、現代の生物学ではたぶんそう教えられると思う。
 「現代の生物学は、熱力学の第二法則は破られることのない法則であるという。しかしそれなら世界は秩序から無秩序に向かうはずである。生きものはその点では例外だといっていい。どうしてそうなるのか。著者は細胞について「C象限の自然」という表現を与える。それは「細胞(Cell)膜から内側の小世界は、それ自体が、熱力学第二法則に抗する機能を分子の組合せとして実現した自然の領域」だと定義される。少し言葉を短くすれば、<細胞内自然と細胞外自然は、熱力学に関してはちがった世界である>ということだ。
 「本書は現代生物学批判として出色のものである。生物学に関わるか、それに関心を持つ人にとって、必読の文献であろう。本書を読んで、私は大学紛争の当時を思い出した。なぜ学問をするのか。当時の学生は、語の真の意味でのラディカルな疑問を大学人に突き付けた。このことが、当時「あたりまえの」研究者として立つつもりだった私の一生を、ある意味で変えてしまった。そういったラディカルなものをこの本は持っている。」

 著者は現代生物学者の視野の狭さを指摘するために、ユクスキュルの「環世界」を持ち出す。「自分にとって意味のある世界=環世界」は生物の種ごとに異なっており、ユクスキュルのあげたダニの世界は三つの環境条件だけが自分にとって意味を持っている。<37度前後の温度、酪酸の匂い、体毛のない皮膚>の三つである。それだけがダニにとっては「意味のある世界」であり、彼らは木の枝のうえから、この三つの条件を備えた哺乳動物が通りかかるのをいつまでも待っている。
 p15近辺
 ユクスキュルにとってはこういったダニの環世界も、イヌの環世界も、もちろん人間の環世界も、生物の環世界という意味ではまったく同格である。ダニが血を吸いたいという欲望の奴隷であるなら、人間は世界を解釈したいという欲望の奴隷である。「生物には、無生物にはない、なにか根本的な性質がある・・・と素直にそう思った人」にバッテンをつける現代の大半の生物学者は、レヴィ・ストロースによってその独善性を暴かれたサルトル一派のように、彼らだけの環世界をより完全なものしようと修正を加え続ける特殊な社会の人たちであろう。
 私(米本)は、<生物の細胞内には、無生物にはない、なにか根本的な性質がある・・・と思うバイオエピステモロジスト>と、<熱力学の第二法則は鉄壁の法則であり、生物細胞の全分子の物理化学的なふるまいを完全に調べ上げれば、生命は理解できると考える>大半の現代生物学者の間には、生命科学に対する「認識の大きな裂け目が」あると考える。その裂け目は「細胞内の自然というものをどう見立てるか」という課題の上に存在している。このことを本書の中で議論していきたいと思う。