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チェスタトン 『ブラウン神父の童心』(創元推理文庫)

 1911年、いまから100年以上前に書かれた、いわゆる推理小説の草分け的な作品とされる。12篇の短編からなるが、そのいずれにも、ブラウンという風采が上がらないことおびただしいカトリック神父が登場する。チェスタトンはこのブラウン神父に謎解きをさせるのだが、その謎にはコナン・ドイルアガサ・クリスティといった正統派作家に使われる<物的証拠>とか<アリバイ>とか<犯行現場の密室性>とかミステリー小説には欠かせないものが一切出てこない。
 チェスタトンは『シャーロック・ホームズ』のコナン・ドイルと同時代人だが、作風ではむしろ彼より一世紀も前の人であるエドガー・アラン・ポーに似た人である。複雑な伏線が張られたプロット、多くの登場人物、細かい場面設定、読者に疑いを持たせるためのいくつかの疑似証拠づくり・・・・・、そういった、作家としての「力わざ」を見せることがチェスタトンは嫌いだったのだろう。ポーが作品の「効果の統一性」や「印象の統一性」を強調し、1〜2時間で読める短編小説を、長編小説よりも重視したのと同じように。もっともポーは、たんに忍耐力が足りないだけだったのかも知れないが。
 思うに、チェスタトンにとって作品の「現実性」はどうでもいいのであって、作品中の犯罪の現実性といったことは眼中にない。そういう文章は新聞記者に書かせておけばいいので、チェスタトンは、作家は犯罪という「悪」の形式を、論理的に、知的に、美的に、強く読者に与えることだけを使命とすべき、と考えていたに違いない。
 この考え方を実地に試すかのように、チェスタトンは<抽象論理>といういかにも欧米人らしい言語の魔術を大切にする。たとえば『イズレイル・ガウの誉れ』という短編で、チェスタトンは並みのミステリー作家を嗤っているかのようだ。「一見奇異に見える犯罪も、一本の抽象論理を精密に適用すれば十分に納得できる動機と犯行のプロセスがある。世のあまたの作品ではこの論理が粗雑すぎて、犯罪解決を子供じみた安上りなものにしていないか。そうさせないために、貧相この上ないブラウン神父がこれからあっと驚く講釈をして、考えるということはどういうことかを教えて進ぜよう」というわけである。

 p166-8
 グレインガル家最後の伯爵は不可解な死を遂げた。死後、かなりの量のダイヤモンド粒、籠いっぱいの嗅ぎタバコ、燭台のない大量の蝋燭、機械部品のような鉄片という、たがいに説明のつかない遺品が発見された。
 「そのつながりならわかるような気がしますな」とブラウン神父: 「グレインガルはフランス革命に大反対だった。ブルボン王家風の家庭生活を文字どおり再現しようと骨を折った。嗅ぎタバコを持っていたのも、それが十八世紀のぜいたく品だからです。蝋燭は、これも十八世紀の照明器具だからです。機械部品のような鉄片は、ほかでもないルイ十六世の錠前いじりの道楽をあらわしています。ダイヤモンドが象徴するのはマリー・アントワネットのダイヤの首飾りにほかなりません」
 ブラウン神父の相棒のフランボウ: 「本当にそうだと思うんですか?」
 ブラウン神父 「一点の疑問もありませんな、それが嘘だということは。みなさんが四種類の遺品を結び付けるのはだれにもできないと強調されるから、そんなことはないよと言ってまただけのことです。真相はもっと深いところにある」

 そして。このあといくつかの「証拠」が何度も検討され、そのつどブラウン神父は「十人の哲学者が宇宙の存在理由を十とおり説明する」ごとく、その証拠が当該案件の「傍証」としては成り立つことを理路整然と講釈する。しかし、チェスタトンはブラウン神父の講釈をどれも決定的に正しいとはしない。ただ読者をブラウン神父の「論理」の世界にわけもなく拉致して、論理世界の魔術的魅力のなかに読者を引きずり込もうというのがチェスタトンの目論見なのである。彼にとっては、この魔術の魅力と比べれば、事件の「真相」など床屋の噂話みたいなものなのだ。現代の大概の読者としては、作家の独善をひたすら我慢するか、本を投げ捨てるか、どちらかしかない。