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阿部謹也 『ハーメルンの笛吹き男』(ちくま文庫)2/3

 新しい都市経済は男性労働者だけでなく、
 その妻や子供にも容赦なかった。

 p137−8
 12、3世紀が厳しい時代だったのは村の伝統社会に対してだけではない。賃労働するしかない都市の下層民も同じだった。日雇い労働者の妻は、亭主が昼食に帰ってきたときに持ってくるその日の日給で晩飯の支度をした。その夫さえ持たない寡婦の頭のなかはどうだったろう。いつも次の食事を費用をどうするかということしかなかっただろう。次の朝のスープや簡単なパン一片の、そしてできれば昼の粥の用意さえあれば、彼女たちは健康である限り、満足して藁床で昼の衣服をかぶって眠りについたことだろう。そしてまた真っ黒になって働かなければならない朝が来る。
 だがドイツ中世都市の日常生活には、現在のように駆けずり回るほどに忙しい仕事があったわけではない。彼女たちは仕事がありさえすれば喜んで働いただろうが、実際にはそれがなかなか難しかった。ハーメルンのような小都市では仕事にありつくことがすでに大仕事であり、屈辱的な経験をしなければならないことも多かった。
 p140−149
 この時代は子供にとっても厳しい時代だった。ブリューゲルは「学校」や「遊び」やいろいろなテーマで子供を描いているが、そこに描かれた子供のまなざしは現代の子供とは決定的に異なっている。ブリューゲルの子供のまなざしは可愛いとか大人しいとかいうものではない。そういう表情を見せる余裕を社会から与えられていないのである。子供たちは、その遊びも楽しみも大人の世界から自分で奪い取っていかねばならなかったのだ。子供たちは、大人が構成する社会の中に、何の斟酌もなく投げ込まれていたのである。
 ・・・・そうした何の保護もない状態で社会に投げ出されていた中世の子供たちは、その重荷に耐えられなくなったとき、しばしば現代の人間には理解しがたい行動に出た。その最も有名なのは「子供の十字軍」だろう。
 1212年5月、フランス、オルレアンの羊飼い少年シュテファンが国王フィリップの前に現われ、「自分が羊をみているときキリストが現われ、十字軍に赴くよう説かれた」と告げた。国王は耳を貸さなかったが、少年は説教をはじめ、やがて数千人の少年少女を集めた。同時代人の誇張によると「その数3万人」に達し、マルセイユまで行進し、そこで二人の商人の運送船に乗り込んだまま行方が分からなくなってしまった。13世紀のある誇張癖を持っている文人の筆によると、子供たちはアフリカの沿岸で奴隷として売られてしまったという。大人の「十字軍」自体が狂信的行為なのだから、この話はありえないことではない。

 多くの人が集まり町を練り歩いて騒ぐ、ゲルマン古来の「異教的」祭りだけが、
 都市に住む下層民のエネルギーのはけ口だった。

 p150−8
 このような中世社会において、人々は何をストレスのはけ口にしていたのだろうか。それは都市や農村で一年に何回も繰り返された年中行事としての祭だった。
 中世には今日では想像することが難しいほど多くの祭があり、そのほとんどは「練り歩き」祭りだった。都市の主教会の祭は盛大なもので、近隣からも人が集まり数日間にわたっていろいろな楽しみが行われた。村の教会の祭は、村人にとって最大の楽しみで、村人は多くの場合は踊りの楽しみのために集まったのだが、なかには武器や太鼓をもって、まるで戦にでも出かけるような騒ぎで集まる連中もあった。
 ・・・・・祭は本来、どこでも庶民の生活のリズムの中から生まれるものである。だからドイツでは祭はゲルマン民族の古来の生活リズムと密着したものであり、庶民の生活の憂さと疲労を晴らすもの、庶民のエネルギーを爆発させる機会でもあった。このためキリスト教が入って以来、教会当局と庶民とは祭の実質的内容をめぐってしばしば対立した。キリスト教会は祭の奥底に潜む古代的・異教的伝統を根絶やしにしたかったから、そのためのあらゆる努力を惜しまなかったが、古代ゲルマン以来の祭はすべて住民の裁判や市場の日と結びついていたから、教会の妨害工作には限界があった。
 ・・・・・1444年当時のフランケン市には、ヨハネ祭の日、奇妙な習慣が残っていたことが知られている。この年の踊りに加わった若い娘は、皆この日に若い男によって集められ、馬の代わりに一つの鋤に繋がれ、この鋤の上には笛吹き男が乗って踊りながら笛を吹き、川か湖の中に引き込まれたという。ボエムスという歴史学者は、祭のときに教会の禁を破って遊びにふけったことの償いとして、この行事が行われたとみている。しかしこのモチーフは「笛吹き男と130人の子供の失踪」の伝説と、あまりに共通のものを持っていないだろうか。