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円地文子訳 『源氏物語』 (新潮社)4/9

 巻六
 源氏物語』最大の読みどころのひとつ、『若菜』の上下巻がこの第6巻に入っている。位も官も絶頂を極めた光源氏の運命がここから大きく暗転しはじめる。
 源氏の実子である(ことは源氏以外誰も知らない)冷泉帝に位を譲って上皇となった朱雀院が、溺愛している内親王・三の宮を正室に迎えてくれと源氏に無理筋の縁談を言い出す。源氏の女たちの頂点に立つ紫の上は宮廷にも認められた特別な女性ではあるが、なんといっても公式の北の方ではないのだから、源氏としては事実上の院旨である上皇の頼みを断り切れるはずがない。
 三ノ宮はどこといってとりえのない、当時の貴族の女性としては油断の多い、少々頭も弱い姫君である。品性のなさを最も嫌う源氏は三ノ宮に元内親王として表向きはかしずくが、扱いは冷たい。数年後にその三の宮が、この物語の当初から源氏に並び立つ威勢があった頭の中将の長男である柏木に言い寄られ、子を宿してしまう。その昔、源氏と藤壺中宮の道ならぬ行為、そのまったく同じことが友人の息子と自分の正妻の間でおこなわれたわけである。
 しかし以上のことは、まだ先の話。紫の上に惚れきっている源氏がいくらなだめすかしても、愛する夫が若い正室を迎えなければならない彼女はひとり煩悶する。

 『若菜 上』
 p40−43
 源氏:「院が仰せになる以上は、こちらに三の宮をお移ししなければなるまい。・・・・どんなことがあろうとも、あなたに対して今までと変わるようなことは決してないのですから、どうか大らかなお気持ちで暮らしていただけるよう・・・・」
 紫の上:「ほんとうにおいたわしいお頼みでございますこと。・・・・あの姫宮の御母は私の父宮の妹君なのですから、その御縁からも私を睦まじい者の数に入れてくださるならばうれしゅうございます。」
 源氏:「あまりこう素直にこだわりなく許して下さるのも、どうしてかと気味悪くなりますよ。・・・・すべて世間の人の口というものは、誰が言い出すともないのに、つい事実と違うことを話して、それがもとでとんでもないことになることがよくあるのですから、ここはご自分の心一つにおし鎮めてください。つまらぬ嫉妬など起こしてはなりません。」
 紫の上:「このように空から降ってきたようなことで、あなたさまには逃れようもないのに、なまじ憎さげに抗ったりはしますまい。今度のことはあなたさまが私の気持ちに遠慮なさったり、私が御意見申したところで、それに従っておやめになれるという筋合いのことではありません。ご自分たち同士のお心から燃え出た恋というのでもない、いわば堰き止める方法もないだけに、私が愚かしく悩むさまを世の人に漏らしたりしたくございません。私のいまの地位がどれほどほかの女君から妬まれていることか。そうしたことを世間が知れば、それこそ呪詛の効果があったと思い合わせられることでしょう。」
 ・・・・・紫の上はかような翳りをお心にともなわないではいられず、これからは人から物笑いにされるかも知れないと心の底にはお思い続けながらも、うわべには少しも変わらず、和やかにしてお過ごしになっていた。

 源氏は、数年前に須磨、明石に下ったのは罪を被ったからではない、弘徽殿側に対するこちらの譲歩だったのだと思っている。一個人としての源氏は、藤壺中宮や紫の上に対する愛情の深さはそれとして、自分の内を測る物差しが甘く、狡さと傲りを隠そうともしない側面を持つ。
 女三の宮邸への渡りの多さに悩む紫の上に対して、源氏はそういった自分への甘さをさらけ出してしまい、とうとう紫の上は出家したいと言い出す。あわてた源氏が出家を思いとどまらせるときの言葉がまたなんとも自己中心的で読む人を苦笑させる。

 『若菜 下』
 p199-200
 源氏:「私は帝の御子として格別のご寵愛をうけてことごとしい生い立ちをし・・・・・、例のないほど幸せと思っています。しかしそれとは別に、母、祖母に早く先立たれ、さまざまな女性に出会いはしましたが、あやしくもの思わしさばかりがつのって、いつも満ち足りたということのないままに過ごしてきたのですよ。
 それにひきかえあなたは、私があの須磨へ行っていたときを別にすれば、あとにも先にも物思いにお心の乱れることはなかったろうと思います。妃の位にあってさえも、また高貴な身分といっても、必ずみなそれぞれに寵愛を争ったりなさったりして、女御更衣などの中でも、心を乱され人にひけをとるまいと競う思いの絶えないつらさがあるのです。
 あなたはその方面では人に優れた御運だったとお考えにならないでしょうか。思いがけず、女三の宮がこんなふうに輿入れしてきたのがちょっとお辛いかもしれないけれども、それにつけても、いっそう私のあなたへの愛情は深まっているのです。ご自身のことだから気づいていらっしゃらないのでしょうが。」
 紫の上:「つまらない私のようなものには過ぎた幸いと他所目には見えましょうけれども、私の心一つには 悲しさばかりが身に添うてまいります。ほんとうにもう長らえそうもありませんので、お願いしております出家のことを何とかお許しください。」
 源氏:「それはとんでもないことです。あなたが尼になってしまったら、私に何の生き甲斐があるでしょう。朝夕あなたの顔を見て一緒にいられる嬉しさばかりが、私にはこの上ない幸福に思われるのです。どうか私の愛情の人と違う深さを、最後まで見届けてください。」

 どこまでも都合のいい源氏だが、やがて、ある盛宴の夜、正妻・三の宮が昔のライバルの長男である柏木に夜這いされてしまい、月満ちて男の子が生まれる。のちの薫だ。冷泉帝が源氏と藤壺との不義の子であることが固く秘されたように、今回のことも世間に何一つ知られてはならない。かつての頭の中将家、いまの太政大臣家の若当主が源氏の正室と姦通したとあっては、光源氏家も太政大臣家も、どちらの成り立っては行かない。
 源氏の君は、あの頭の中将の息子ふぜいがと、怒りも心頭だが、そうかといって、顔色にも出すべきことではないと煩悶する。「自分の父・桐壷の院も、いま自分が悩み苦しんでいるように、藤壺の宮と自分との間の密事を万事御承知の上で、何食わぬ顔をつくっていたのではあるまいか」と、ここに至って源氏は過去の密通を恐ろしい罪としてはじめて認識するのだった。

 p250
 紫式部の源氏の突き放し方はクールそのものだ。自分の過去の密通に対する罪の意識は本物である。だが改悛しているかといえば、そうでもない。「この道については今後もどうなるか自分でもわからない」とのんきなものだ。それを紫式部は憐れむような筆致で書く。「今の自分の栄華もその忍び通された恋の形見でないとも言えないと、身近な例をお思いだしになるにつけ、恋の山路の深さ険しさは踏み分けがたいものとお思い返しにならないでもない。」