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円地文子訳 『源氏物語』 (新潮社)6/9

 紫式部は僧というものを、「告げ口をする卑劣漢」として、遠ざけておきたい人種の内に数えている。
 たとえば、光源氏藤壺の不義は当人同士の絶対の秘密であったのを、代々の帝の加持祈祷を行い過分な禄をもらい続けてきた僧都が、こともあろうに不義の子である冷泉帝自身にその事実を伝えたのだった。冷泉帝の動揺はもちろんただ事ではない。
 僧都自身は、様子のなんとなく落ち着かない女房「小侍従」あたりから事実を聞き出したのだろうが、そのことを冷泉亭に暴露する口調がいやらしい。
「ああ畏れ多い。仏の秘密である真言の奥義さえも、帝にはお隠し申さずお伝えしておりますゆえに、このことは心に隠し置くことができません。このことは過去将来の重大事でございますが、隠しておりましたら先の桐壷の院、今度お隠れになった藤壺の母后、世の中を取り仕切っている源氏の大臣の御身にとってよくないことが漏れ出るに違いありません。私のような老法師の先々はどうでもよろしいのですが、仏天のお告げがあるによって奏上いたすのでございます・・・・・・。」(『薄雲』p34-5)

 もうひとつ、これは坊主の話ではないが、このことを聞かされた「不義の子」冷泉帝の態度が解せない。僧都から自分は桐壷帝の子ではなく、実の親は源氏であると聞かされたとき、冷泉帝は「実の親を臣下の地位に置いたままにしておくのは不孝に当る」とばかり考える。「せめて准太政大臣になっていただかなければ」相済まないとばかり考える。実父・源氏がその父・桐壷帝の妻を犯した大罪のことを悩むわけではないのである。
 一千年前の平安中期というのは、龍の腹から尊い仏が生まれるとされた時代である。合理性を秩序の基本とする社会には程遠く、六条の御息所の怨霊は葵の上だけでなく何人もの貴人を殺した。葵の上も紫の上も死の直前に一度生き返り、悲しい恨み言を言ったあとに本当に死んでいる。
 そうした時代、<親への孝>の徳は<君への忠>の徳よりはるかに高かったのだろうか。そうでなければ冷泉帝の父源氏に対する敬いの心の変わらなさは説明できない。時代が『平家物語』の頃に移ってはじめて、「孝ならんと欲すれば忠ならず、忠ならんと欲すれば孝ならず」と忠と孝は徳として同じレベルのものになった。その優劣については、学者の数だけ異なる説が主張されるようになった。

 「告げ口をする坊主」の話はまだある。
 巻七『夕霧』では、雲居の雁をただ一人の妻とする堅物男の夕霧が、源氏の眦に射すくめられてとうとう死んでしまった柏木の未亡人・二宮に恋慕して、その邸に通っているのだが、滅多に山を下りないことで有名な「俗離れした朴訥な律師」が、そのことを二宮の母・一条の御息所に告げ口する。
 律師は一条の御息所に、夕霧はいつから二宮に通っているのですかと問う。御息所は寝耳に水なので、そんなことはありません、と否定する。律師はそれを鼻で笑い、俗人もまっさおのような話を聞かせる。
「今朝、後夜の勤行に参上しました折、あの妻戸からたいそう立派な男がお立ち出でになりましたぞ。私の下の法師どもが『夕霧の大将のお帰りです』と口々に申しておりました。・・・しかし、夕霧の大将は人物学識教養とも申し分ありませんが、本妻(の雲居の雁)の一族の威勢がまことに強い。二宮の君が苦労されるのは目に見えるようです。私はまったく賛成できません。」・・・・・というような余計なおせっかいをするのだ。
 当時、貴族を除けば、坊主はほとんど唯一の識字階級である。しかし難しい漢字を読めることと人格が高潔であることは別次元の話であるのは、今も昔も同じである。当時は画数のやたら多い漢字そのものに(イコンとしての)「霊力」が宿るとされ、この点においてこそ日本の宗教はかろうじて古代アニミズムを振り切ることができていた。一定割合の坊主が世間のいたるところで、その(イコンとしての)「霊力」に尾ひれをつけて、あやしい巫術と説教をまき散らし、人々の判断を鈍らせていたとしても不思議はない。
 リアリストであった紫式部は、個人の救済にかかわる宗教の積極面は全く否定しなかった。そして、宗教のそうした積極面と現世生活の怪しい感情・判断・行動が、ある個人の中では不思議に両立することもよく知っていた。だから紫式部は、自分の場合は上下の世間が評判する「大徳」は敬って遠ざけるにかぎると決めていた。