アクセス数:アクセスカウンター

ジュンパ・ラヒリ 『低地』(新潮社)

 両親ともに社会的能力に恵まれた場合、子育てはどちらが担うのがいいのだろう。父親が何日の育児休暇を取ったなどと呑気なことを言って済ませることがらではない。
 バングラデシュの過激な革命運動のさなか、カルカッタの低湿地帯にある貧しい自宅で警官隊に射殺されたウダヤン。殺されたのは頑迷守旧な両親と身重の妻ガウリの眼前でだった。ウダヤンと仲のよかった学究肌の兄スバシュは、のこされたガウリと生まれたベラをアメリカ東部のの大学町に連れていく。そこで結婚し、スバシュは弟ウダヤンの子・ベラを実子として育てる。
 まだカルカッタにいた時分、スバシュとウダヤンの老いた母はガウリのことを、学問はできても人の親にはなれない嫁だと言っていた。母親の姑根性だと思っていたが、アメリカに一緒に来てみて、スバシュは単に古い人間だと思っていた母親のその言葉を思い出した。
 ガウリは育児のために自分を犠牲にできない女性だった。ベラが保育園に行けるようになるとガウリは大学の図書館に通いはじめ、カルカッタ時代に学んだニーチェヘーゲルショーペンハウエルを再び読みあさった。その理解の深さは聴講講座の教授が博士課程への学費免除推薦状を書いてくれるほどのものだった。
 そして数年後、スバシュが弟の子ベラを連れてカルカッタの老親を2、3週間訪ねているあいだに、ガウリはカリフォルニアに一人で引っ越してしまう。「大学の俸給だけで生活できるます。子を捨てるということをしようとしているのはよく分かっています」という書置きを残して。事前に何の相談もスバシュになく。
 ・・・・・・・、ここからは静かな筆致の中で、波風のいろいろに立つ登場人物のその後の暮らしが描かれる。ジュンパ・ラヒリはゆっくりとした筆遣いの中で、「起きてしまうことは仕方がない」ということをたんたんとつづっていく作家だから、思春期に入りかけた子を自分の学究心のために捨てることをしたガウリをひどくは罰しない。ガウリは自分のあまりの利己主義に、ある程度の罪悪感には当然見舞われるが、作家は終章に近くなって赦しさえ暗示している。

 名著『胎児の世界』を書いた三木成夫によれば、「わたしたちは母胎の中で、いわゆる十月十日の間、羊水に漬かって過ごす。羊水は胎児の口のなかはもちろん、鼻、耳などおよそ外に通じるすべての孔に入り込み、身体の内外をくまなく潤い尽くす。・・・・・・それだけではない。小さな胎児は喉を鳴らしてこれを思い切り飲み込む。・・・・こうして羊水は、胎児の食道から胃袋までをくまなく浸し、胃の幽門を越えて腸の全長におよぶ。そこで何がしかは組織深く吸収される。・・・・感覚的に理解できないことだが事実である。・・・・胎児のこの「羊水呼吸」は出産の日まで続けられる。」(以上、『胎児の世界』p62)
 だとすれば、母親と子供は、生まれてからもしばらくの間は生物として一体のものを数多く共有していると言っても間違いはない。DNA塩基配列の変化を伴わないいろいろな形質が少女期に現れることについて、幼児期の母子の共同生活は重い意味を持っているはずである。その共有しているものを母親が一方的に断ち切って、子供の人格形質によくない影響を及ぼさないはずはない。だからたぶん、子育てはどちらのものか、それをことさらに「考える」こと自体に、すでに問題があるのだろう。ガウリのように子を捨てる、そして罪悪感の表明にも自己弁護の論理をにじませる、そんな母親は何百何千万人といるだろうが、ひじょうな美人の作者はこの問題に何の提言もしていない。