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小泉英明 『アインシュタインの逆オメガ』(文芸春秋)

 筆者は東大基礎科学科卒業後、日立の基礎研究所で生化学物質のさまざまな超精密計測機器を開発した人。ご自身も深く関わった光トポグラフィーによる脳機能の可視化装置は、うつ病の判定診断に欠かせない先進医療の核心技術のひとつということだ。(ちなみにだが、タイトルの「逆オメガ」というのは大脳の頭頂葉と前頂葉を分ける中心溝のこと。小泉氏はアインシュタインのこの部位が一般の人とは少し形が異なっていて、そのことがあの天才性と結びついていると述べている。しかし以下の記事は「逆オメガ」とは関係がない。)

 発育途上の脳に早すぎる刺激を与えるのは危険であると小泉氏は説く。就学以前の語学やスポーツの過度の早期教育には問題が多い。幼児期に読み書き計算や英語をやらせたり、パソコンや携帯に触らせたり、フルマラソンを走らせたり・・・・。こんな風潮は、本来の子供の育ち方を知らない一部の大人たちの身勝手な妄想で、要するに「早いうちに大人のできることをやらせよう、その方が効率がいいではないか」という短絡思考にすぎない。その人たちは、 生きるものは、生きるために最低限必要な器官から順に進化した。この進化の土台の上に現在の私たちが生きている。言語は聴覚から始まる。耳から入った言葉がしっかり定着しないうちに、書き言葉を教えるのは、脳の発達には決してプラスではないということの理解を欠いている・・・・・。
 小泉氏の論調は優しく物静かだ。ついこの間まで先人たちが言っていたことの正しさを、最先端脳科学の知見を使って平明に説き続ける。その優しい視線は、こころ落ち着いた母親の肌を求める生後間もない赤ちゃんにも注がれる。一方で、そわそわといそがしい母親の授乳の仕方を述べるときの氏の視線はとても厳しい。

 人間には本来21か月の妊娠期間が必要だった p131
 人間の赤ちゃんは40週の妊娠期間を経て生まれてきますが、赤ちゃんというのは初期化されていないコンピュータのように、何もない空っぽの存在なのでしょうか。そんなことはありません。
 赤ちゃんは、ハードウェアとしての身体は未完成ですが、すでにいろいろなことを感じています。できることがいくつもあります。赤ちゃんをお母さんのおなかの上に乗せてやると、自分の力でお乳を目指して這い上がります。本能のなせる業です。そして乳首を見つけて吸い付きます。「吸啜反射」と呼ばれるもので、原始反射の一種です。
 原始反射は赤ちゃんが最初に生きてゆくのを助ける生理作用のことで、出生直後から1〜2歳ごろまでに見られます。そして前頭前野からの制御ができるようになると消えてゆきます。
 本来、人間の妊娠から出産までに必要な時間は、他の哺乳類と比較すると21か月程度が必要とされます。しかし脳の急速な肥大化と、直立二足歩行による骨盤の矮小化によって、人間は未熟児を「生理的早産」する道を選んだわけです。したがって生まれてから約1年は、本来は胎児として過ごす期間だった。原始反射はこの1年間を無事に生きるための足場になっていると言えます。
 ・・・・原始反射の一つに、「パラシュート反射」という9か月ころからだんだんみられるようになるものがあります。大人が両手でしっかり支えた赤ちゃんの体を、少し前に倒すように傾けます。すると赤ちゃんは、身体を支えるかのように両腕を前に伸ばします。転びそうになったときに手をつけるように、二足歩行への準備として用意された反射と考えられています。大人になっても、転びそうになると思わず両腕で前に出して大怪我を防げるのは、この反射が一生消えないためです。

  乳児は古くからある神経系を使って、母親の快・不快の表情を読み取っている p136・p163
 人間の赤ちゃんは視覚が未発達であるため、明暗が分かる程度で物は見えていないとよく言われます。しかし実は、物を見るときに使う脳の回路には2種類の回路があることが知られています。精密な視覚像をとらえる通常の回路とは別の、精度は粗いが非常に高速度で対象をとらえるという回路です。この回路は大脳辺縁系にある扁桃体につながっています。扁桃体は本能、生物として快・不快を感じる部分です。
 わたしは通常の視覚が未発達な乳児期の赤ちゃんは、脳幹や辺縁系の、両生類・爬虫類のころからある神経系を使って、ぼんやりとものを見ているのではないかと考えています。お母さんのにっこりした顔を見て心が安らいだなら、お母さんの顔を「快」と感じるのではないでしょうか。その逆もまた真だとしたら・・・・・。
 赤ちゃんにとって最も大切なのは自分以外にも信頼できる存在があるとする「愛着」関係です。多くの場合はお母さんである養育者への愛着です。赤ちゃんは生れ落ちるまではお母さんと一体です。臍の緒が切られて身体は離れるのですが、まだ心は一つと感じています。それが、自分とお母さんは違うのだと感じる時期が悟る時期が人間の場合はすぐにきます。進化によって人間はそのように運命づけられています。
 その疎外感を埋めるのが愛着です。これは一方通行ではありません。お母さんが無性にわが子をいとしいと感じることが、脳幹や辺縁系を通る神経系によって赤ちゃんにも伝わるのです。テレビを見ながらの授乳、携帯メールをしながらの授乳が論外であると言われるのにはちゃんと理由があります。赤ちゃんは、イライラした顔や心ここにあらずの顔をしたお母さんに抱かれていても、「快」を感じることは少ないでしょう。