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吉川浩満 『理不尽な進化』(朝日出版社)2/3

 進化論は、結果論である。
 適者だから生き残ったのではなく、生き残ったから適者なのだ。

 p83
 生物の世界の生き残りゲームは、人間のスポーツ競技と違って、そもそも公正・公平な観点というものはない。地球の自然環境はべつに生物の都合や事情に合わせて動くわけではないからだ。それなのに私たちは、あまりにもしばしばフェアプレー精神の罠に落ちてしまう。
 ここには「世界公正仮説」という認知バイアスが関係している。世界公正仮説とはその名のとおり、世界は不当な不運に見舞われたりすることのない公正な場所だとしやすいわたしたちの信念、信条あるいは信仰を指す。世界は公正なのだから、努力したものは報われ、努力しないものは報われない、という信仰のことだ。この認知バイアスのおかげで私たちは努力や善行が無意味なものではないと信じて、それらを実践することができる。
 この認知バイアスが、私たち素人が考える進化の舞台にも適用されることがある。その結果、恐竜という理不尽な絶滅の犠牲者はもともと劣っていたのだとみなしやすく、小型哺乳類という理不尽な生存の受益者はもともと優れていたのだとみなす誤謬をおかすことになる。理不尽な絶滅者や生存者を、フェアな完全競争(があると思いたい)マーケットで負け、あるいは勝つ企業のように考えているのである。
 p99
 私たちは多くの場合、生き延びて子孫を残すことのできる存在を、強者とか優者としてイメージしている。強いものが弱いものを食い物にする「弱肉強食」とか、優れたものが劣ったものを駆逐する「優勝劣敗」といったイメージだ。でも、こうした私たちが抱くイメージは、あくまで人間が自然や野生といった概念に対していだく印象や願望の反映にすぎない。私たちがふだん抱いている進化論のイメージは、大部分がこうした印象や願望、あるいは失望を投影したものだ。
 本来の自然淘汰説のアイデアが教える適者は、人間的観点から見た強者や優者とはさしあたり関係がない。自然淘汰は、弱肉強食でも優勝劣敗でもない。適者であるための条件は生き延びて子孫を残すということだけだ。それを弱肉強食とか優勝劣敗の掟で包み込むのは、自然淘汰の原理を人間の勝手な価値観にすりかえる誤ちである。
 そのような、強者や優者としか思えないような生物種が(統計的には2800万年ごとというデータもある)天体のたまたまの衝突によって理不尽にも絶滅に至ってしまうことがある。三葉虫もその代表的な例だが、生物は、繁栄時点でどれほど高い能力をそなえているように見えても、それが「将来のおいても」環境にフィットしなければ、その生物は生存と繁殖を保証されない。そしてじつに、環境にフィットしているかどうかは、実際に生物が子孫を残せたかどうか、それのみによって判定される。自然淘汰によって生き残るものとは、あくまで結果として生き残り子孫を残せたものを指すのである。わたしたちが「将来のおいても」環境にフィットできるという証明は、もちろんまったく存在しない。
 進化論で言う適者生存とはあくまで結果論、成果主義なのだ。現在で優者らしく見える生物種は、進化論では適者と判定しない。生存のための自然のルールはいつでもそのつど再設定されるのであり、最新のルールに適合し子孫を残せた種だけが適者と判定されるのである。

 p164
 「適者生存」というダーウィン進化論の基本概念がつきつめれば結果論、成果主義であるというのは常識的にはわかりにくい。「適者生存」とは「適者が生存する」と解釈しやすい言葉であるからだ。しかし正しくは「生存したのが適者」という意味なのだ。だからこそ進化論は「結果論」なのだ。
 私たちはふつう目的論的な思考習慣を持っている。キリンは高いところの葉っぱを食べるために首を長くした、というのが人間の自然な思考習慣である。専門家ですら、便宜のために目的論的思考の助けを借りる。たとえば、目はものを見るために、脚は移動するために、肺は酸素を取り込んで二酸化炭素を排出するために発達した、等々・・・・・。
 しかし厳密に言えば逆なのだ。それは、物を見るのに適した形質をもった個体が生き残り子孫を残した結果なのであり、移動するのに適した形質をもった個体が生き残り子孫を残した結果なのであり、・・・・・以下同様である。
 ここで大事なことがある。目的論的にしか理解できなかった事実を結果論的に説明する自然選択・適者生存という革命的理論を手にしてもなお、私たちがその事象を目的論的にしか理解できないという事態は変わらないということである。
 そもそも「眼は何のためにある」という「理解」そのものが目的論的な思考によるものだ。眼や足の由来を「結果論」的に理解するとはどういうことなのか、私たちにはなかなか想像できない。眼や足の由来を「結果論」的に理解すれば、あと一歩で、「世界は人間にとっての“意味”を失う」だろう。意味とは信仰の対象ということである。
 p178
 おそらく私たちは何らかの世界像なしでは生きていけない。それは私たちの思考や行動の前提となる先入観や信念、信憑といったものを提供する役割を持つからだ。それは、正しいか誤っているかという以前に、初めから検証などされるわけにはいかない存在であり、またそういうものとして初めて成り立つ。その意味で世界像とは――それが科学的に正しいものであれ、誤ったものであれ――そもそも科学以前の存在なのである。