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リチャード・ドーキンス 『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店)1/2

 1976年に出た本書によってダーウィンの進化論は生物進化理論の標準理論として定まった、といわれている。刊行直後から世界的ベストセラーになり、あらゆる生物個体は利己的な遺伝子の乗り物であるという本書の基本テーゼはそれまでの生命観を180度転換するものだった。この主張はあまりにも鮮烈な内容を含んでいたので、当然ながらいろいろな誤解も数多く生まれた。われわれ人間を含めた個体が利己的な遺伝子の乗り物にすぎないなら個体のすべては遺伝子が決めているとか、人間の自由意志とはたわごとであるとか、社会にさまざまな悪があるのは利己的な遺伝子のたくらみであるとかいったことは、今でも新聞雑誌にときどき見られる誤解である。
 この誤解のもとになったのは「遺伝子」にくっついた「利己的な」という形容詞にある。利己的という単語は、普通の文脈では、自分に利益のあることだけを考えるという「悪い」意味に使われる。あまり耳ざわりのいい言葉ではない。
 しかし著者リチャード・ドーキンスが「利己的な遺伝子」というとき、そこには悪とか善とかの価値判断はまったく入っていない。遺伝子のふるまいに言及するとき、彼は一流の生物学者、動物行動学者として当然ながら没価値的である。ドーキンスは「遺伝子の長い腕」という魅力的な名がついた第13章で、この「遺伝子」と「遺伝子を乗せる個体」をきちんと分けて理解する必要性を説明している。

 p396−7
 遺伝子は、自然淘汰がかけられる根本的な単位であり、個体が生存に成功あるいは失敗する基本的なもの、そして、ときどきランダムな突然変異をともないながら自分のコピーを形成していく自己複製子である。DNAは自己複製子である。
 自己複製子は巨大な生存機械、すなわち自分の乗り物である個体の中に寄り集まる。われわれがいちばんよく知っている乗り物は自分の身体である。したがって身体は自己複製子ではない。それは乗り物なのだ。乗り物はそれ自身では複製しない。乗り物は(最低でも生殖年齢に達するまで)生存し、体内の自己複製子が(有性生殖の場合は異性と交わって)増殖できるよう活動するのがその役割である。
 自己複製子は(自身の乗り物である個体のように)行動せず、世界を知覚せず、獲物を捕らえたりあるいは捕食者から逃走したりしない。遺伝子と生物個体は、ダーウィンのドラマにおいて同じ主役の座を争うライバルではない。両者はまったく異なった配役なのであり、多くの点で同じように重要な、互いに補い合う役割、すなわち自己複製子という役割と乗り物という役割である。

 利己的な遺伝子」という言葉は「遺伝子は自分にできることだけをする」という意味にすぎない。犯罪家系の人の遺伝子には「悪いたくらみ」があるから、その子孫は悪いことをしやすいと考える人がまれにいるが、それはその人が世界をそのように捉えたいだけのことである。
 遺伝子はただの大きなタンパク分子である。タンパク分子に意識やたくらみがあろうはずがない。自己複製という、無機物質の結晶形成にも似た性質をもっているだけだ。
 養老孟司がある講演集の中で言っている。ダーウィンが提唱しドーキンスが補強した進化論―自然淘汰説もある意味で世界を説明する仕方の一つである。しかし強力な方法の一つであって、自然に限らず世界内のいろいろなことをその仕方で説明できる。というのは自然選択説というのは、選択された後に生き残った私たちが世界を説明している論法だから、典型的な結果論である。結果論だったら、ある結果にいたった理由を推論し、それを補強するらしく見える証拠を提示することは、論理展開の力に恵まれた人には難しいことではない。しかし、カメがこれからどうなる、チンパンジーがどうなる、ヒトがどう変わっていくということについては、自然淘汰説は何も語ることができない。結果論は、定義として、これから起きることは説明できないからである。
 われわれはときどき、「不妊療法によってせっかく“授かった”赤ちゃんは利己的な遺伝子のわざに頼ることだったのか」みたいなことを言うけれども、それはわれわれがドーキンスの説明上の便法を丸呑みしてしまうからである。あたかも遺伝子に意図があるかのように説明すると、説明される側が人間を理解したように思いやすいものだから、そういう説明をドーキンスはときどきするのだが、この本の中では遺伝子が「操作している」とは、彼はまったく言っていない。