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永井荷風 『腕くらべ』(全集第六巻・岩波書店)4/5

  東京新橋界隈を舞台にした荷風充実期の名作花柳小説。1918年の作。タイトル「腕くらべ」とは、旦那を自分の身の中にからめ取るための芸者同士の技くらべの意。
 吉岡という色男を古株の姐さんからかすめ取った、いま売出し中の新橋芸伎・駒代は、恨み骨髄の姐さんから復讐の機会をうかがわれている。 一、二年後駒代はその吉岡に飽きられ、捨てられそうになって、今度は花形役者瀬川に乗り換えようとするのだが、この瀬川も好きもので、売れっ子役者の自分としては駒代一人に女を限りたくない。ちょうどその折をねらって、いまだに駒代を恨む古株姐さんが、配下の若い芸者の体を使って、瀬川を横取りしてしまう。ところが男の方も大したもの。 もちろん若い芸者を愛玩するのはほんのひと月ふた月で、 それまでさんざん苦労した古株なんぞには見向きもしない・・・・、そういった芸者街おなじみの色と欲の卍模様が十九世紀の江戸ふうにしつらえられた自在闊達な文章で語られる。
 ころがり流れる五音・七音の掛け言葉の綾織りは、芸者と馴染みお客の心理のやり取りを写し取ろうとする浄瑠璃の台本のよう。江戸末期の下町界隈・色町小路を写し出した戯作本にあるような章句が何十カ所も出てくる。そういう意味では、花街の色艶物語を題材に文章作術の「腕くらべ」をされては、荷風以外の作家は逃げ出すしかない。
 
 1910年の大逆事件に遭遇して永井荷風は悲痛な感想を述べ、日本の作家として異例ともいえる決心を綴った。「明治四十四年慶応義塾に通勤するころ、わたしはその道すがら市ヶ谷の通りで囚人馬車が五、六台も続いて日比谷の裁判所のほうへ走っていくのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折ほど言うに言われないいやな心持のしたことはなかった。わたしは文学者たる以上、この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュス事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。しかしわたしは世の文学者とともに何も言わなかった。わたしは自ら文学者たることについて甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。」(1919年『花火』・本ブログ2012年7月6日黒岩比佐子『パンとペン』)
 荷風の個人的好みと本来の性向もあるだろうが、1911年の『すみだ川』以降、1918年のこの『腕くらべ』からアジア太平洋戦争の戦中・戦後にわたる『つゆのあとさき』、『墨東奇譚』、『ひかげの花』、『浮沈』といった主要な作品のすべては <自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した> 本人の羞恥をひきずっているということができる。

 戯作者・柳亭種彦に擬したふうな倉山南巣という老人が、江戸以来の下町花柳界を俯瞰する人物として登場する。南巣は、日を定めずに役者の別宅や芸妓の置屋、古寺の鼠が走る堂や傾いた旧妓楼のあるところを遊歩の経に選び、折りよく昔を知る役者や置屋の主人に出会えば、往時にあった彼らの身辺の些事をその場でこまかく記して、後のために残しておくのを習慣としていた。倉山南巣は一面の荷風自身といってもいい。
 倉山南巣とはこんな人である。いまでもときどき見かけるタイプかもしれない。
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 南巣は父の知己中に新聞社の社長や主筆になっている人も少なくなかったので、父の死以来彼は操觚(文筆界)の人となった。しかし南巣は紅葉眉山硯友社の一派にもさしたる関係なく、また透谷秋骨等の新文学も知らず、逍遥不倒等前期の早稲田文学とも全く交友する機会なく、ただ先祖代々住み古した根岸の家の土蔵にしまってある和漢の書籍と江戸時代の随筆雑著の類から独り感興を得て、ある時は近松、ある時は西鶴、ある時は京伝三馬の形式に倣い、あくまで戯作者たる伝来の卑下した精神の下に、丁寧沈着に飽くことなく二十幾年物語の筆を執ってきたのであった。
 しかし時勢はいよいよ変じて、ことに大正改元以来、文学絵画の傾向、演劇俗曲の趨勢は日常一般の風俗と共に、生来あまりものに熱中せぬ南巣をもさすがに憤慨せしむべきことが多くなってきたので、彼ははじめてこれではならぬと気がついたらしく、婦女童幼を喜ばす続き物の執筆に一生を終えるべきではない、ちょうど晩年の京伝や種彦のなしたように、旧時の風俗容儀什器の考証研究に心を傾け、小説の戯作は新聞社と書肆に対する従来の関係上ただその責任をすますだけのことにしてしまった。
 かくて今、南巣の身にとって根岸の古家と古庭は何ものにも換えがたい宝物となった。・・・・・わが家の既に所々虫の食った縁側も、ここには天明の昔、曾祖父が池辺の梅花を眺めて国風を論じ、次いで祖父はこの傾きかかった土庇にさす仲秋の月を見て狂歌を詠じたかと思えば、たとえいか程無駄な経費を要しても、この古家と古庭は昔のままに保存しておきたい心持になる。・・・・思えば南巣の父秀斎老人も、月のよい晩など、我が家の庭を歩きつくして、垣根の破れから隣の空庭に入り込み、池の周りを徘徊しながら、 少時不識月 呼作白玉盤 又疑瑶台鏡 飛在白雲端 なぞと李白を大きな声で吟じていたものである・・・・・・・・。