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池澤夏樹 『スティル・ライフ』(中公文庫)

 静物画のことを英語で「スティル・ライフ」というそうだ。
 ふつうは地上の映像、動画としてとらえられる日常生活。その「地下室的」部分を、詩人・池澤夏樹が顕微鏡的あるいは望遠鏡的静物画としてとらえてみた作品だ。文壇の作品賞にあまり詳しいわけではないが、こういうマクロと望遠の二つの焦点を持ったような芥川賞受賞作はかつてなかったと思う。ちまちましたストーリー重視の日本小説には今後も出ないかもしれない。

 読者は小説家のむずかしい抽象的な話を嫌がる。そのことを作者はよく分かっているから、語り手「ぼく」の日常生活の表層を書くときには、ちゃんと面白い話が「動画」として仕込んである。
 この動画の主役は「ぼく」ともうひとり、バイト先で気が合った少々「変わり者」の佐々井という男。この佐々井は、じつは五年前に会社の株式運用システムを使って公金を横領した人物だった。
 佐々井は、公金横領はカネだけが欲しくてやったわけじゃないから、まもなく刑事事件での時効が来たら会社に対して民事の方の弁済をしたい、と「ぼく」に打ち明ける。その打ち明けどおり、実名を世間に知られるわけにはいかない佐々井は、自分は自作のコンピュータシステムで堅実な売買を繰り返し、「ぼく」に証券会社との虚実ないまぜの取引方法を詳細に伝授ししながら、二人三脚で海千山千の証券会社を相手に全株を見事に売り抜ける。かくして佐々井と「ぼく」はたった三か月間で、佐々井が横領した金額プラス利子分の利益を簡単に稼ぎ出した・・・・。

 ・・・・・・という具合だが、語り手のすぐ隣に株屋がいるというのは、まるでポール・ヴァレリーの『テスト氏』みたいだ。株式=金融こそ「動く世界」の端的な表象であり、だからこそ昼は株屋であるテスト氏は、夜になると「静止画の世界」をギリシア数学の公式のようにあれほど正確に、天空のような高みからただ俯瞰し続けたのだ。
 池澤夏樹の小説で「悪」は頻繁に登場するが、悪をなした人が直接的な言葉で強く糾弾されるわけではない。悪は懲らしめられるのだが、悪と罰の間には、その罰をつくった人間側のもっと大きな悪や、罰が機能する社会制度の矛盾や、自分の悪に気付かないメディアの気楽さなどが数々のエピソードの中に紛れ込まされていて、読者は今この小説で書かれている「悪」はじつはどっちでもいいのではないかと思わされてしまう。
 ・・・・・・「ぼく」は、指示された証券会社との交渉からの帰り道、佐々井に言われるままに動いている自分のことを考えているとき、神社の境内で二十羽ほどのハトが地面に落ちた餌を探しているのに出会う。そのハトの様子を見ながら「ぼく」はいかにも(池澤夏樹ふうに)あるゆったりとした想念にひたされていく。そして読者も、「ぼく」と同様、現実世界の「悪」のかなたにある存在論の雲の中に誘い込まれていく。
 ・・・・・・「歩行のプログラム、彷徨的なすすみ方、障害物回避のパターン、その場を放棄するときの食欲の満足度あるいは失望の限界、ホーミングのための飛行のプログラム。彼らの毎日はその程度の原理で充分まかなうことができる。そういうことがハトの頭脳の表層にある。
 「しかし、その下には数千万年分のハト族の経験が分子レベルで記憶されている。ぼくの目の前にいるハトは、数千万年の時空を飛んできた永遠のハトの代表なのだ。ハトの灰色の輪郭はそのまま透明なタイム・マシンの窓となる。長い長い時の回廊のずっと奥に、(ハトの先祖が生まれた)ジュラ紀の青い空がキラキラと輝いて見えた。
 「今であること、ここであること、ぼくがヒトであり、他のヒトとの連鎖の一点に身を置いて生きていることなどには、意識の表面のかすれた模様くらいの意味しかない。大事なのはその下のソリッドな部分だ。個性から物質へと還元された時間の彼方のゆるぎない存在の部分があることが、ぼくにはその時あざやかに見えた。ぼくは数千光年のかなたから、ハトを見ている自分を鳥瞰していた。」