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井筒俊彦 『読むと書く』(慶応大学出版会)1/2

 イスラム教における啓示と理性
 p65−73
 イスラム教のことが報道されるとき、宗教としての内容が発生当時とは歴史的に大変化していることに、TVや新聞は触れていません。たとえば同じ東洋の宗教でも、仏教などは大乗仏教小乗仏教を混同して話す人はまずないと思われる。ところがイスラム教に対しては、そのことにはまことに無頓着です。
 コーランに見られるものは原始イスラム教であって、それは生粋の昔ながらのアラビア人、アラビア半島にいたベドウィンたちの宗教です。いま私たちがTVや新聞で見ているイスラム教というのは、理論上ではこの原始イスラム教が発達したものではあるが、実際上はコーランそのものから直接出たものではありません。むしろ原始イスラム教の面影はイスラム教発生後200年ほどでまったく影をひそめてしまった。この短い年月の間に教祖ムハンマドの考えていたものとは似ても似つかぬものとなってしまったのであります。報道では、このことにまったく触れられていないのです。
 一体アラビア人に限らずこのあたりの乾燥地帯に生きた人々(今では不正確な名称であるセム人)は、きわめて感覚的情緒的な人種であって、論理的思惟をもっとも苦手とする人たちであった。なかでも昔ながらのアラビア人、アラビア半島にいたベドウィンたちは、とくに視覚聴覚に優れていて、その反面彼らは抽象概念、イデアの世界とか論理とかいうものに対しては、まったく興味を示さなかった。
 コーランは唯一の神アッラームハンマドを預言者に選んで、ムハンマドの口を通じて自分の啓示を記せしめたというものでありますが、コーランを読むとき肝に銘じておかなければならないのは、これが徹頭徹尾<啓示の書>だということであります。論理的な記述がされているかとか、時系列に乱れはないかとかを考えては、コーランを読むことはできません。ある行で言っていることが次の行では全く否定されていることしばしばです。
 論理的に考えることを苦手とする、ムハンマドが生きた時代のアラビア半島のひとと異なり、後世の、それも中央アジアやシリア、北アフリカ、スペインというサラセン帝国に住む人たちが 「神のみ心を論理的に理解したい」 と考えてコーランに臨んだときに、大いに当惑したのはむしろ当然であります。これらの国の人たちはもはや非論理的なコーランを感覚的に、ただありがたい神の言葉として頂戴していくことはできなくなったのであります。そこで彼らはコーランの解釈ということを始めました。

 この解釈学者のなかでも、のちの西洋哲学との関連において、12世紀にスペイン・コルドバで活躍したアヴェロイスほど重要な学者はいません。コーランを神学的に基礎づけるに際してはどの学者もプラトンアリストテレスとシリアのキリスト教神秘哲学を援用せざるをえなかったのですが、アヴェロイスのアリストテレス原典に当たった研究は精密にして科学的なること、すなわち論理的なることは驚くべきものでした。
 このアヴェロイスに触れたときの西洋中世スコラ哲学者の衝撃はたいへんなものであって、この衝撃がもとになってパリ大学を中心にギリシア哲学研究が進み、のちのちのルネッサンス文化の一端はここから導かれました。アヴェロイスは理性(=論理)によって認めたものは、たとえ神がこれを偽りであるといっていても、やはり真理であると断じました。ここにおいてコーランの啓示というものは(サラセン神学界にとどろいていたアヴェロイスの名声の前に)まったくその権威を失ってしまったのです。

 しかし彼は余計なことまで言いました。 「聖典の真理と哲学の真理が一見矛盾するように見えるのは、人間の考えが足りないからである。真理そのものである太陽を直視すれば、その光が激烈であるために目が潰れてしまう。そこで神は、真理をそのまま見せるとかえって危険があるから、民衆の目が潰れないように大いなる恵みをもって予言者ムハンマドを遣わし、頭の足りない者どもに聖典を与えたのである・・・。」
 彼は一般の教義学者をまるで馬鹿者扱いしたわけであり、ひいては一般宗徒を愚弄したこととなりました。モスクの説教でそのことを聞いた一般民衆は烈火のごとく憤り、彼はついに異端宣告を受けアフリカに追放されてしまいました。

 アヴェロイスの追放は、単に一人の神学者の追放だけで終わりませんでした。アヴェロイスの論理的な鋭い指摘はサラセン帝国の神学全体に深甚な影響を与え、それ以降イスラム教は預言者ムハンマド個人が重んじた<感覚性>を第二義的なところに位置付けてしまったのです。と同時に、「論理性を補強されたイスラム教」はまぎれもない世界宗教に発展し始めました。