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井筒俊彦 『読むと書く』(慶応大学出版会)2/2

 コトバの意味――たとえば日本語の「花」を取り巻く情緒の重なり合いについて
 p315−9
 常識に属することだろうが、一つの単語には音的側面(シニフィアン)と意味内実的側面(シニフィエ)がある。言葉の意味とはなんであるかを考えるとき、ある単語のシニフィアンは一つだが、それに対応するシニフィエの方は、原則的に、一義的ではない。しかし、一義的ではないということは直ちに多義的ということでもない。物に例えるなら、ツブのぎっしり詰まった葡萄のひと房とでもいうか。ツブ(意味)が互いに交錯し多重多層に結び合う、多くの意味構成要素の濃密な有機的全体である。
 最も分かりやすい例として、日本語の「花」を取り上げる。
 「花」のシニフィアンはハナである。これに対応するシニフィエとして、ソシュールならなんの花ともつかぬ漠然たる「花一般」の模式図をえがいて、それが「花」の概念的一般形象であるとするだろう。だが、そんな概念的一般形象としての「花」は、日本語の意味論的「意味」からほど遠いことをわれわれは知っている。植物学上の述語ならいざ知らず、われわれ日本人の生きた言語感覚では、ハナというシニフィアンに対応するシニフィエには纏綿たる情緒の縁暈がある。
 最初期には「梅」をはじめさまざまな花として具体的に形象化されていた日本語の「花」は、次第に桜花のことを指すようになり、一種独特の色合いを帯びてくる。そして、果ては本居宣長のあの「敷島の大和心を人問はば・・・・・・・・・・」という烈しい桜花への執心となる。ほとんど妄執に近いこの宣長の「花=桜」に対する情熱も決して彼の個人的感情だけの問題ではない。
 古くは例えば『古今和歌集』(一)に、天地いっぱいに咲き誇る桜花の爛漫たる陶酔を歌う歌人たちの姿をわれわれは見る。そしてまた「しず心なく花の散るらん」(紀友則)という桜花の底知れぬ憂愁。春の夜の夢の幻想の中にまで散る桜、「やどりして春の山辺に寝たる夜は夢のうちにも花ぞ散りける」(紀貫之)。下ってはあまりにも有名な「ねがはくは花のもとにて春死なむ・・・・・・」とした西行。そのほかあげていけば際限もない。例を「花」に限れば、月にかかる暈のような言葉の意味の歴史的重なり合いは、どの西洋語にも現れない現象だろう。 このようなものはすべて遠い昔の話であって、現代を忙しく生きる今のわれわれの日本語にはもはや何のかかわりもない、と、もしいう人があれば、それは一般に言語なるもののカルマ的本性を知らないことからくる誤解である。
 言語のカルマ性、すなわち意味のカルマとは何か。それはかつて言語的意識の表層で顕在化していた意味慣用が、時の経過とともに表面からは見えなくなり、意識の深層に沈み込んで、そこにひそかに働いている力のこと。意識の深いところにあるからほとんど姿は見えないが、しかしその反面、基底部にあるだけ、見方によってはかつて表面で顕在化していたときよりもはるかに強力で、執拗に現在のわれわれの言葉の「意味」を色づけ、方向づける重要な要因となっていることが多い。
 心の不可視の奥底に累積されて、下意識的に生き続けている古い意味慣用、それが意味のカルマである。この意味のカルマがわれわれ現代人の心にもあるからこそ、先の大戦の若い兵士たちは「同期の桜」をあのようにも熱唱したのである。