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岸田 秀 『続 ものぐさ精神分析』(中公文庫)1/2

  これまで、文明評論の立場からの史的唯物論批判の多くは、「史的唯物論マルクスがそれを書いた当時の社会状況に囚われた信仰告白である」 として、マルクスの自分の立ち位置に対する無自覚を批判していた。
 心理学者からの史的唯物論批判がこれまでどのくらいあるかは知らないが、岸田秀のこの論文は間違いなく、従来のマルクス批判者には思いもつかなかった論点からの、ラジカルなものである。

 ひとは幻想のために働くからこそ、自分を強制労働に駆り立てる
 p36−7 史的唯物論批判
 史的唯物論の説くところによれば、猿から人類への進化において労働が重要な役割を果たしたそうである。この労働ということを考えてみる。
 働き蜂は働く。猿も食物の獲得や子供の世話などのために働く。しかしこれらは本能に規定された行動形式に従って労働するのであって、この種の労働をどれだけつづけたところで、猿は人間にならない。本能にもとづく労働は、現実の必要をみたし本能的欲求が充足されれば、それで終わりになる。動物がそれ以上働くことはない。
 ところが本能がこわれてしまっている人類においては、本能にもとづく労働では現実への適応は保証されず、個体保存も種族保存もできない。いやむしろ、人類の共同幻想世界においては、現実の必要に応じた労働などはそもそも不可能なのである。人間の労働がある程度は現実への適応を保証できるのは、人々の私的幻想を共同化して共同幻想世界をつくり、これを疑似現実としているからである。
 たとえば、敗戦前の日本では、大日本帝国共同幻想が疑似現実であり、戦争協力という労働が日本という集団への適応行動であって、これをしない者は非国民として不適応になったが、この集団の外(日本の敵国)では当然のことながら事態は逆であった。
 人間は現実からずれた幻想のために働くからこそ、人間を強制労働に駆り立てることが可能なのであり、また、人間は余剰な生産物を生み得るのである。史的唯物論が説くように、人間の労働の生産性が向上したからではない。もし人間に共同幻想の疑似現実がなく、現実に密着した存在なら、生産性が向上すれば労働力を減らしたであろう。余剰なものなど作りはしないであろう。ひとが老人なって余剰なものをつくることを嫌がるようになるのは、彼の中で共同幻想が次第に薄れてきたからであろう。

 「家族内身分の固定」こそ、人間と動物を分ける決定的なメルクマールである
 p205−9 近親相姦のタブーの起源 
 近親相姦のタブーは非常に強い禁忌として人類のどの集団にも普遍的に存在しており、そして動物には存在していないという意味において、人間と動物を分ける決定的なメルクマールであろう。
 しかしこのタブーには合理的な根拠がない。巷間、近親相姦からは障害のある子供が生まれる確率が高いといわれるが、近親同士のわるい劣性遺伝子がその子供において顕在化するということは考えられるにしても、同じ確率ですぐれた劣性遺伝子が顕在化することも考えられる。遠い他人同士の結婚でも二人が同じ悪い遺伝子をもっていることもあるのだから、そのようなことがこの強いタブーの根拠であるとは思えない。このタブーはなるべくなら避けたほうがよいといった生易しいものではなく、絶対的な性格を持っており、その絶対的性格はこのような曖昧な根拠からは説明がつかない。
 ・・・・・・ではなぜこのタブーは存在するのか。このタブーは、人間が自我というものを持ったことと関係があるとわたしは思っている。
 われわれの自我のもっとも根源的な基盤は、親にとっての「子」という属性である。われわれが最初に接するのは母親だから、この親はまず母親である。生まれたときわれわれは自己と他者の区別のない渾然一体のカオスの中に棲んでいる。そのうち自己と他者の区別が成立するわけだが、われわれはわれわれに対して最初に出現した他者を母親とおき、その母親にとって「子」であるということを基盤として、はじめて「自我」を構築する。「自我」とはまずはじめに、この母親の「子」であることを幼い心で認識することである。
 ところで人類の家族は、動物の家族集団の延長線上にあるものではない、人類独自の発明である。自我がなければ人間ではない。人類が家族という集団を形成し、家族制度をつくったのは、各人に人間を人間たらしめる自我の基盤を与える必要があったからである。だから人間の家族は生物学によっては説明できない。
 そして、この家族制度の成立のために、近親相姦の強いタブーが不可欠となった。なぜなら近親相姦は母親ついで父親にとっての息子または娘という身分関係を混乱させ、この身分関係が混乱すれば、「子」は自分の自我の由来が分からなくなるからである。自分の立ち位置が分からなくなれば、子は最初の渾然一体のカオスの中に戻ってしまわなければならない。タブーのなかでいちばん強いのは世界のどこでも母子姦であるが、このタブーが破られれば、息子は自我の基盤を自分で放棄することになる。自分を自分たらしめる基盤を自ら失うことになれば、われわれは類として存続することは不可能である。