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養老孟司・内田樹 『逆立ち日本論』(新潮選書)

 いま大学入試の読解問題に採用される著作家のトップが養老孟司で、二位が内田樹だそうだ。二人とも、「大病して死ぬ間際になっても、病床に大嫌いなあるいは大好きな見舞い客が来ると、該博な知識と恐るべき偏見に満ち満ちた無駄話をいつまでも続けて、見舞い客を帰さない」と自分でおっしゃる困った人である。そんな二人の、日本人とアメリカ人とユダヤ人の、教育とメディアの、表と裏のおせっかい話がてんこ盛りの一冊。

 ユダヤ人」は、僕たちの世界観を知らず知らず自白させてしまう
 p42-45
 養老  ユダヤ人というのは国民でもなく、人種でもなく、ユダヤ教徒のことでもない。「ユダヤ人」という言葉は価値中立的・指示的に用いることがほとんど不可能である・・・・・・。
 内田  ユダヤ人がユダヤ人であるのは、彼らを「ユダヤ人である」と見なす人がいるからだ――「ユダヤ人は状況が生み出した存在である」とサルトルが言ったようですけど、たしかに半分はその通りだと思います。
 だから、ほかの本でもいいましたが、「私たちはユダヤ人について語るときは、必ずそれと知らずに、私たち自身の世界の分節法を語ってしまう」んですね。
 p53-57
 内田  反ユダヤ主義が、中国での反日運動なども一部ここに含まれるような、共同幻想であることは間違いないと思います。でも、他に類を見ないような共同幻想だ。
 反ユダヤ主義は、中国での反日運動などのような、さまざまな人間的愚行・野蛮の一変種ではなく、人間性そのものの本質なのではないか。反ユダヤ主義者たちは、ユダヤ人が何ものであるかが分かっているせいで迫害しているわけじゃないんです。なにものであるかが「わからない」。でも、「わからない」と口にしてしまうと、それまでのキリスト世界に2000年もいた自分たちの足元が崩れてしまいそうな、ヨーロッパ世界そのものが瓦解してしまいそうな嫌な予感がする。だから迫害者の知的レベルにあまりかかわりなく「目の前から消えてくれ」と叫びたてている。

 「意識」の起きる1秒前に、神経は動き始めている
 p61
 養老  内田さんは、無意識の中で脳みそが生理的に動いてから、そのあとで意識が発生していることをご存じですか?つまり、意識というのは、生理的・無意識に対して「後出しじゃんけん」なんですよ。
 どういうことかというと、脳が「ぼくはコーヒーを飲みたいと思っているな」と働いて、その0・5秒か1秒後になってはじめて「コーヒーを飲みたい」と意識化され、言語化されるということです。ベンジャミン・リベットが1980年代に行った有名な神経生理学実験によってあっさり証明されました。
 西洋人は、理性とか自由意志とか良心だとかずっと何百年もいい続けてきましたよね。反ユダヤ主義自体さえ、「ユダヤ人的なるもの」に対して「非ユダヤ的自分なるもの」があると意識的に幻想していますね。でも、「意識」のこの「後出し性」を考えると、どうなんですかね。
 内田  驚きました。脳活動と意識のあいだにすでにズレがあるんですか・・・・・・。
 じつはユダヤ天地創造神話は、かなりヘンテコな話なんです。キリスト教天地創造神話は、神さまが無から有を生み出すわけですけれど、ユダヤではそうじゃない。神が「自己収縮」して、世界のための「場所を空ける」のです。人間はそこに到来するのです。
 だれかが「あ、どうぞ、ここ空きましたから、どうぞ」といって立ち上がったおかげで、人間は世界に到来することができた。で、やってきた人間には、その場所で、立ち去っていった何かの残像というか余韻が感じられる。立ち去った人の気配というか、ぬくもりというか、息づかいというか、そういうものがかすかに残留している。でも、その「感じられる」のも予言者の時代までで、それ以降もう神の気配はない。
 養老さんが今おっしゃった神経生理学的事実は、意識下の脳活動=神の先着、意識=遅れて来た人間、という素朴なアレゴリーとして成り立たせるとどうなんでしょう?ただのバカバカしいおしゃべりかもしれませんが・・・。

 教師がサボるから、子供は「自分という夢」を本気にする
 p172
 養老  戦後、「個性」が主張され始めてなにが起こったかというと、教師がサボるようになりました。教師というのは、子供を見極めて「お前はこっち、お前はあっち」って示してやるのが、本来の役目だったでしょう?それを「個性」という内在型にしたから、子供の「自己責任」だけになっちゃった。同時に、教師や年長者というものの意味がなくなりました。
 内田  自分の個性って、ほとんど他人に言われて初めて気がつくものなのに・・・。
 養老  他人の「見る目」がないと、個性なんてないも同じです。他人のことが分からなくて、どうやって生きられるでしょう。ところが、人がどう見ようと「個性」はあるものだということになってしまいました。ぼくが今までで出会ったいちばんの個性派は精神病院にいますよ。