アクセス数:アクセスカウンター

池澤夏樹編集 『日本語のために』(河出書房新社)1/4

 池澤夏樹の個人編集になる「日本文学全集」の最終巻。 古代から現代まで、アイヌ語から沖縄方言までさまざまなジャンルの作品の抜粋と、いろいろな角度からの日本語についての考察が収められている。日本文学全集の一冊としては非常に変った中身がつまった本だ。
 p125-8 聖書翻訳の文体――ケセン語 岩手県気仙地方―気仙沼大船渡陸前高田地域の生活言語)訳によるマタイ福音書

 キリスト教聖書の日本語訳にはどんな文体がいいか、議論が多い。文学者たちは「口語訳」のしまりのなさに異を唱える。丸谷才一は昭和29年の版について、「世界の文明国の中で、新教徒が、これほど馬鹿ばかしい文体で書かれた聖書を読ませられている国が、そういくつもあるとぼくには思えない」と言った。わたし(池澤夏樹)は信仰の拠りどころとして考えると生活語に近いほうが好ましいという考え方をしている。(そしてもちろん丸谷も標準口語の訳が不要と言っているのでもない。この訳がひどいと言っているのだ。)
 生活語に徹した例として山浦玄嗣の『ケセン語福音書』がある。ケセン語とは岩手県気仙沼陸前高田地方の言葉である。山浦はカトリック教徒で、医師で、言語学者、作家である。ケセン語は東北の一方言にすぎないが、そこに住む人たちにとっては唯一無二の日々の言葉である。山浦の考えの基には彼が医師であること、つまり周囲の人々の身体的な悩みを日々の生活の言葉で聞く立場にあったことが働いていたかもしれない。
 『ケセン語福音書』が出たとき、わたし(池澤)は書評を書いた。その中でマタイ福音書の有名な節と語句を例にあげて、標準口語訳とケセン語訳を比較してみた。
 標準口語訳で 「心の貧しい人は、幸いである、天国はその人たちのものである」 というのを、ケセン語訳では 「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ァ幸せだ。神様のふとごろに抱がさんのァその人だちだ」 という。心への浸みかたがこの二つでは全く違う。「心の貧しい人」 と言ったのでは 「想像力が乏しく気高い心が欠如している」 人になってしまうから、ここは意を汲んで 「頼りなく、望みなく、心細い人」 とならねばならない。
 ・・・・・また従来の訳から一歩踏み込んで原義に近い言葉を用いていて、それを説明した解説がおもしろい。5章44節の 「敵を愛し」 は 「敵(かだぎ)だっでも大事(でァずィ)に」 となる。その理由はギリシア語の「アガパオー(愛する)」は上下関係のない動詞だが、日本語の「愛する」は本来は上から下への思いでしかないからという(逆は「慕う」)。だからキリシタンが普通には「お大切」と訳すところをここでは「大事(でァずィ)」という。
 『ケセン語福音書』では西欧の言葉を漢語に移して終りという明治以来の翻訳のあしき傾向を排して、本来の日本語に基づいた語彙が探されている。だから「婚宴」などという耳で聞いて分からない言葉は採らず、「嫁御貰(よめごもれァ)の宴会(おふるめァ)」と言う。
 24年前にこのケセン語訳『山の上の教(おス)え』が会衆の前で朗読された時、ある老婦人が 「いがったよ! おら、こうして長年教会さ通ってね、イエス様の言葉もさまざま聞き申してきたどもね、今日ぐれァイエス様の気持ちァわかったことァなかったよ!」 と言ったという。