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池澤夏樹編集 『日本語のために』(河出書房新社)3/4

 福田恒存 『私の国語教室』 
 第二次大戦敗戦直後に文部省は「国語改革」を行った。かなづかいを話し言葉の発音に合わせることと、漢字の使用制限および略字化の二つを柱とする大幅な表記法の「上からの改革」だった。わたしたちは今すっかりその「指導方針」に馴れてしまっているが、当時はかなりの激論が活字メディア上に行われた。池澤夏樹によれば、最も強力な反論がこの福田恒存の論だということだ。 「いわゆる新かなづかいがいかにいい加減なものであるかを徹底的に論破した。改革論者の側にあったのは普通の人々の知力に対する軽視だったのではないか。どの言語にも(「てふてふ」を「ちょうちょう」と発音させるような、文部省が「改革」しようとした)矛盾はあるもので、たとえば英語はそのような矛盾に満ちた非常に不合理な言葉である(にもかかわらず、今や世界語たる地位を占めている) 」と池澤は解説している。

 p281−2
 1946年文部省の国語審議会が「現代かなづかい」を発表しました。「より所を現代の発音に求め、だいたい現代の標準的発音をかなで表す場合の準則とする」(文部省国語課)といふものです。
 たとへば「じ」と「ず」、「ぢ」と「づ」を書き分けねばならぬといひます。その根拠はもちろん語源です。「小さなつつみ」だから「こづつみ」、「小さな造り」だから「こづくり」で、さて「口ずから」はとなると、この「ずから」は一般に語源が分からないから、分からない場合は「す」の濁りすなわち「口ずから」でいい。かういうふうに書き分けるのです。早い話「現代かなづかい」は「つかう」という語意識が生きてゐるから「づかい」でなければならない。
 「じ」と「ず」の場合も同じです。「帳尻」は「帳面の尻」だから「ちょうじり」でなければならない。「手漉きの紙」は「手で漉いた紙」の意味で、「変な手つき」の「手つき」とは無関係だから「てずきの紙」でなければならない。

 しかし解せないことがある。語意識が生きてゐるかゐないかの判定はだれがするのかといふことです。「たづな」には「綱」の語意識があり、「きずな(絆・生綱)」にはそれがないといふ。「おおづめ(大詰)」や「すしづめ(すし詰め)」では「詰め」が生きてゐて、「さしずめ(さし詰め)」では死んでいるといふ。「むしづくし(虫尽し)」では「づ」で、「きぬずくめ」では「ず」になる。しかし「虫づくし」と同様に「絹づくし」といふ言葉も当然あるわけで、さうなると「絹づくし」では「づ」で、「絹ずくめ」では「ず」になるといふ、まことに奇妙づくめな話になります。
 そもそも語意識が生きてゐるかゐないかなどといふことは、だれにも判定できることではない。また判定の目安などどこにもない。今日使はれる言葉はすべて生きてゐるのだし、過去に使はれた言葉もすべて生きてゐるのです。したがって語意識も生きてゐる。人がみづからそれと気づかぬ場合もにも生きてゐる。さういふことに国語改良論者はもっと謙虚にならなければいけません。他人の語意識を勝手に判定し、藪医者ではあるまいし、生きてゐるのゐないのと無責任な診断を下すなど、もってのほかの僭越であります。

 ・・・というふうにこの福田恒存の国語審議会=文部省罵倒は止まるところがない。
 しかしながら、蛇足を承知でひとこと言えば、福田のシェイクスピア劇は、初版や全集は知らないが、少なくとも部数の多い文庫版はすべて現代かなづかいになっているのはどうしたことか。すべては出版社側の商業主義で片づけられるのだろうか。